・・・もしもその際に、近代人の資格は神経の鋭敏という事であると速了して、あたかも入学試験の及第者が喜び勇んで及第者の群に投ずるような気持で、その不健全を恃み、かつ誇り、更に、その不健全な状態を昂進すべき色々の手段を採って得意になるとしたら、どうで・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・の名に奮起して身を文壇に投ずる志を立てた。例えば二葉亭の如き当時の造詣はむしろ坪内君を凌ぐに足るほどであったが、ツマリ「文学士春の屋おぼろ」のために崛起したので、坪内君莫かっせばあるいは小説を書く気には一生ならなかったかも知れぬ。また『浮雲・・・ 内田魯庵 「明治の文学の開拓者」
・・・手前味噌の結果報告だけに万に近い広告費を投ずるとは、なんとしてもうなずけぬ……。 やられてるじゃないか。ちゃんと見抜かれてるじゃないか。いや、何もおれは今更お前の慈善行為にけちをつける気は、毛頭ない。目的はどうであれ、慈善は大いによ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・そこで全き心を捧げて恋の火中に投ずるに至るのである。かかる場合に在ては恋則ち男子の生命である」 と言って岡本を顧み、「ね、そうでしょう。どうです僕の説は穿っているでしょう」「一向に要領を得ない!」と松木が叫けんだ。「ハッハッ・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・もあるまいと湯漬けかッこむよりも早い札附き、男ひとりが女の道でござりまするか、もちろん、それでわたしも決めました、決めたとは誰を、誰でもない山村の若旦那俊雄さまとあにそれこうでもなかろうなれど機を見て投ずる商い上手俊雄は番頭丈八が昔語り頸筋・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・けれども、ひとりの人間に自信をつけて救ってやるためには、どんな傑作でもよろこんで火中にわが身を投ずる。それが、ほんとうの傑作だ。僕は君ひとりのためにこの小説を書いたのだ。しかしこれが君を救わずにかえって苦しめたとすれば、僕は、これを破るほか・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・お皿一枚に五十円、百円、否、万金をさえ投ずる人の気持は、ついに主人の不可解とするところの如し、某日、この主人は一友を訪れたり。友は中庭の美事なる薔薇数輪を手折りて、手土産に与えんとするを、この主人の固辞して曰く、野菜ならばもらってもよい。以・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・おのれの最も信頼して居るものこそ、おのれの、生涯の重大の刹那に、必ず、おのれの面上に汚き石を投ずる。はっしと投ずる。 さきごろ、友人保田与重郎の文章の中から、芭蕉の佳き一句を見いだした。「朝がほや昼は鎖おろす門の垣。」なるほど、これに限・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・ 例えば市中の井戸の一割に毒薬を投ずると仮定する。そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒薬を混ずるとする。そうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。こ・・・ 寺田寅彦 「流言蜚語」
・・・だから私のいう人のためにするという意味は、一般の人の弱点嗜好に投ずると云う大きな意味で、小さい道徳――道徳は小さくありませぬが、まず事実の一部分に過ぎないのだから小さいと云っても差支ないでしょう。そう云う高尚ではあるが偏狭な意味で人のために・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
出典:青空文庫