・・・ 彼はもう何だか、わざわざ切角こうやって生きている蚯蚓の命まで奪って僅かばかりの小魚を釣るにも及ばないような心持になって、草の上に針を投げ出すと、そのまま煙草をふかし始めた。 さっきまでは居る影さえしなかった鳶が、いつの間にかすぐ目・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・「それでも私は自分を投げ出すことができない! して見ると生は一つの力でなければならない。何物かでなければならぬ。私たちには永久というものがないから、人生は何物でもないという人がある。ああ! 愚かなることだ! 人生は私たち自らである。それは私・・・ 宮本百合子 「マリア・バシュキルツェフの日記」
・・・とか云いながら、左の手で右の袂を撮んで前に投げ出す。その手を吭の下に持って行って襟を直す。直すかと思うと、その手を下へ引くのだが、その引きようが面白い。手が下まで下りて来る途中で、左の乳房を押えるような運動をする。さて下りたかと思うと、その・・・ 森鴎外 「心中」
・・・三七日の夜半に観音は、子種のないことを宣したが、長者は観音に強請して、一切の財産を投げ出す代わりに子種を得るということになった。やがて北の方は美しい玉王を生んだが、その代わり長者の富はすべて消えて行った。長者は北の方とただ二人で赤貧の暮らし・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・ありのままのおのれを卒直に投げ出すような気持ちになれるために、作者も主人公もあのような苦労を積み重ねなくてはならなかったのである。 しかし『新生』を書いたことによって藤村があの習癖を完全に脱却したというのではない。『新生』は藤村があ・・・ 和辻哲郎 「藤村の個性」
出典:青空文庫