・・・「画になるのもやはり骨が折れます」と女は二人の眼を嬉しがらしょうともせず、膝に乗せた右手をいきなり後ろへ廻わして体をどうと斜めに反らす。丈長き黒髪がきらりと灯を受けて、さらさらと青畳に障る音さえ聞える。「南無三、好事魔多し」と髯ある・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・―― 私は一つの重い計画を、行李の代りに背負って、折れた歯のように疼く足で、桟橋へ引っ返した。――一九二六、七、一〇―― 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・ 客の羽織の襟が折れぬのを理しながら善吉を見返ッたのは、善吉の連初会で二三度一座したことのある初緑という花魁である。「おや、善さん。昨夜もお一人。あんまりひどうござんすよ。一度くらいは連れて来て下すッたッていいじゃありませんか。本統・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・それに馬鹿に骨が折れて、脚が引っ吊って来る。まあ、やっぱり手を出して一文貰うか、パンでも貰うかするんだなあ。おれはこのごろ時たま一本腕をやる。きょうなんぞもやったのだ。随分骨が折れて、それほどの役には立たねえ。きまって出ている場所と、きまっ・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・もっとも地獄の沙汰も金次第というから犢鼻褌のカクシへおひねりを一つ投げこめば鬼の角も折れない事はあるまいが生憎今は十銭の銀貨もないヤ。ないとして見りャうかとはして居られない。是非死ぬとなりャ遺言もしたいし辞世の一つも残さなけりャ外聞が悪いし・・・ 正岡子規 「墓」
・・・眼をひらいてまた見ますと、あのまっ白な建物は、柱が折れてすっかり引っくり返っています。 蟻の子供らが両方から帰ってきました。「兵隊さん。かまわないそうだよ。あれはきのこというものだって。なんでもないって。アルキル中佐はうんと笑ったよ・・・ 宮沢賢治 「ありときのこ」
・・・ ――むこうの軟床車の下で車軸が折れたんです。もうすこしでひっくりかえるところだった。 ブリッジへ出て両手でわきの棒へつかまり、のり出して後部を見わたしたら、深い雪の中へ焚火がはじまっている。長靴はいて緑色制帽をかぶった列車技師が、・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・ 秀麿の銜えている葉巻の白い灰が、だいぶ長くなって持っていたのが、とうとう折れて、運動椅子に倚り掛かっている秀麿のチョッキの上に、細い鱗のような破片を留めて、絨緞の上に落ちて砕けた。今のように何もせずにいると、秀麿はいつも内には事業の圧・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・竹藪を廻ると急に彼は駈け出したが、結局このままでは自分から折れない限り、二人の間でいつまでも安次を送り合わねばならぬと考えついた時には、もう彼の足は鈍っていた。そして今逆に先手を打って、安次を秋三から心良く寛大に引き取ってやったとしたならば・・・ 横光利一 「南北」
・・・客間はたぶん十畳であったろうが、書斎の側だけには並び切れず、窓のある左右の壁の方へも折れまがって、半円形に漱石を取り巻いてすわった。客が大勢になっても漱石の態度は少しも変わらなかった。若い連中に好きなようにしゃべらせておいて、時々受け答えを・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫