・・・このまま河岸を出抜けるのはみんな妙に物足りなかった。するとそこに洋食屋が一軒、片側を照らした月明りに白い暖簾を垂らしていた。この店の噂は保吉さえも何度か聞かされた事があった。「はいろうか?」「はいっても好いな。」――そんな事を云い合う内に、・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・ 竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山の空も、もう火照りが消えかかっていた。良平は、愈気が気でなかった。往きと返りと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗の濡れ通ったのが気になったから、やはり必死に駈け続・・・ 芥川竜之介 「トロッコ」
・・・ペンキ塗りの校舎に沿いながら、もう一度庭を向うへ抜けると、海に面する運動場へ出た。土の赤いテニス・コオトには武官教官が何人か、熱心に勝負を争っている。コオトの上の空間は絶えず何かを破裂させる。同時にネットの右や左へ薄白い直線を迸らせる。あれ・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・髪は手に従って抜けるらしい。 その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊があ・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・水は川から灌いで、橋を抜ける、と土手形の畦に沿って、蘆の根へ染み込むように、何処となく隠れて、田の畦へと落ちて行く。 今、汐時で、薄く一面に水がかかっていた。が、水よりは蘆の葉の影が濃かった。 今日は、無意味では此処が渡れぬ、後の橋・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ 袖さえ軽い羽かと思う、蝶に憑かれたようになって、垣の破目をするりと抜けると、出た処の狭い路は、飛々の草鞋のあと、まばらの馬の沓の形を、そのまま印して、乱れた亀甲形に白く乾いた。それにも、人の往来の疎なのが知れて、隈なき日当りが寂寞して・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・身悶えをすれば吐きそうだから、引返して階下へ抜けるのさえむずかしい。 突俯して、(ただ仰向であった―― で、背くぐみに両膝を抱いて、動悸を圧え、潰された蜘蛛のごとくビルジングの壁際に踞んだ処は、やすものの、探偵小説の挿画に似て、われ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 一体昨夜お前を助けた時、直ぐ騒ぎ立てればよ、汐見橋の際には交番もあるし、そうすりゃ助けようと思う念は届くしこっちの手は抜けるというもんだし、それに上を越すことは無かったが、いやいやそうでねえ、川へ落ちたか落されたかそれとも身を投げたか・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・千日前から道頓堀筋へ抜ける道の、丁度真中ぐらいの、蓄音機屋と洋品屋の間に、その表門がある。 表門の石の敷居をまたいで一歩はいると、なにか地面がずり落ちたような気がする。敷居のせいかも知れない。あるいは、われわれが法善寺の魔法のマントに吸・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・ 新京極を抜けると町はほんとうの夜更けになっている。昼間は気のつかない自分の下駄の音が変に耳につく。そしてあたりの静寂は、なにか自分が変なたくらみを持って町を歩いているような感じを起こさせる。 喬は腰に朝鮮の小さい鈴を提げて、そんな・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
出典:青空文庫