・・・いくら押しても、叩いても、手の皮が摺り剥けるばかりです。 六 その内に部屋の中からは、誰かのわっと叫ぶ声が、突然暗やみに響きました。それから人が床の上へ、倒れる音も聞えたようです。遠藤は殆ど気違いのように、妙子の名前・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ しかし父はその持ち前の熱心と粘り気とを武器にしてひた押しに押して行った。さすがに商魂で鍛え上げたような矢部も、こいつはまだ出くわさなかった手だぞと思うらしく、ふと行き詰まって思案顔をする瞬間もあった。「事業の経過はだいたい得心が行・・・ 有島武郎 「親子」
・・・その娘は何でも目に見えるものを皆優しい両手で掻き抱き、自分の胸に押しつけたいと思うような気分で、まず晴れ渡った空を仰いで見て、桜の木の赤味を帯びた枝の方を見て、それから庭の草の上に寝ころんで顔を熱く照らす日に向けて居た。しかしそれも退屈だと・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ さて心がら鬼のごとき目をみひらくと、余り強く面を圧していた、ためであろう、襖一重の座敷で、二人ばかりの女中と言葉を交わす夫人の声が、遠く聞えて、遥に且つ幽に、しかも細く、耳の端について、震えるよう。 それも心細く、その言う処を確め・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・いよいよ余儀ない場合に迫って、そうするより外に道が無かったならばどうするかと念を押して見た。自分の前途の惨憺たる有様を想見するより外に何らの答を為し得ない。 一人の若い衆は起きられないという。一人は遊びに出て帰って来ないという。自分は蹶・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ぴッたり、僕のそばにからだを押しつけて坐った。それッきりで、目が物を言っていた。僕はその頸をいだいて口づけをしてやろうとしたら、わざとかおをそむけて、「厭な人、ね」「厭なら来ないがいい、さ」「それでも、来たの――あたし、あなたの・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・政界の新人の領袖として名声藉甚し、キリスト教界の名士としてもまた儕輩に推されていたゆえ、主としてキリスト教側から起された目覚めた女の運動には沼南夫人も加わって、夫君を背景としての勢力はオサオサ婦人界を圧していた。 丁度巌本善治の明治女学・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・たったさっきまで、その名誉のために一命を賭したのでありながら、今はその名誉を有している生活というものが、そこに住う事も、そこで呼吸をする事も出来ぬ、雰囲気のない空間になったように、どこへか押し除けられてしまったように思われるらしい。丁度死ん・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・人々は、長い間の版で押したような生活に疲れていました。毎日同じようなことをして、朝になるとはね起きて、働き、食い、そして日が暮れると眠ることにも飽きてしまいました。 みんなは、仲よく暮らすことを希望していましたけれど、どうしても、このこ・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・ しかし、ものの二十間も行かぬうちに、案内すると見せかけた客引きは、押していた自転車に飛び乗って、「失礼しやして、お先にやらしていただきやんす。お部屋の用意をしてお待ち申しておりやんすによって、どうぞごゆるりお越し下されやんせッ」・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫