・・・が、物悲しい戦争の空気は、敷瓦に触れる拍車の音にも、卓の上に脱いだ外套の色にも、至る所に窺われるのであった。殊に紅唐紙の聯を貼った、埃臭い白壁の上に、束髪に結った芸者の写真が、ちゃんと鋲で止めてあるのは、滑稽でもあれば悲惨でもあった。 ・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・というこれまでの悪評に、ますます拍車を掛けるような結果になった。誰も彼も庄之助の塾を敬遠した。そして弟子は減る一方で、塾はさびれ、彼の暮しは一層みじめなものになった。 そこで彼は、土地の軍楽隊に籍を置いたり、けちな管弦楽団の臨時雇の指揮・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・雨に濡れたあとの動物的な感覚が、たしかにその本能へ拍車を掛けていた。ことに、裸の娘と深夜の部屋に二人きりでいるという条件は、この際決定的なものであった。 しかし、そんな風な、まるでおあつらえ向きの条件になった原因を考えると、小沢はやはり・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ その時、扉が軋って、拍車と、軍刀が鳴る音がした。皆は一時に口を噤んで、一人に眼をやった。顔を出したのは大隊副官と、綿入れの外套に毛の襟巻をした新聞特派員だった。「寒い満洲でも、兵タイは、こういう温い部屋に起居して居るんで……」・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・彼は、自分に口返事ばかりして、拍車を錆びさしたりしたことを思い出して、むっとした。「不軍紀な! 何て不軍紀な!」 彼は腹立たしげに怒鳴った。それが、急に調子の変った激しい声だったので、イワンは自分に何か云われたのかと思って、はっとし・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・ 聯隊の二階では、長靴に拍車をつけたエライ人が、その拍車をがち/\鳴らしながら、片隅の一室に集って何か小声で話し合った。それから伝令が走らされたのだった。…… 大西も、栗本も、腰に弾丸がはまった初田も週番上等兵につれられておりてきた・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・り行く世の姿 ああ移り行く世の姿塵をかぶりて 若人の帽子は古び 粗衣は裂け長剣は錆を こうむりてしたたる光 今いずこ宴の歌も 消えうせつ刃音拍車の 音もなし ああ移り行・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ 児童たちの窓ふき作業ぶりを観察して、たちどころに小学教育の基礎と方法とは労作に結びついた教育でなければならぬという社会主義教育の階級的課題にまで頭の中で推論に拍車をかけた佐田は性急に、孤立的にそれをどういう形で行うかというと「おおい、・・・ 宮本百合子 「一連の非プロレタリア的作品」
・・・連記制は、この未熟さに拍車をかけて、三名選挙するのなら、それぞれ全く反対の立場の政党の有名人一人ずつに、男へ投票するなら女も、と、婦人一名という工合に、気まかせに組合わされた。つまり、政府で売出す富くじみたいに、三様に書いてみれば、どれか一・・・ 宮本百合子 「一票の教訓」
・・・むしろそれに拍車をかけている。けれども、ここに一つ、人間の理性と文学の真実にとって、おもしろい現実がある。それは、ひごろ「細雪」の世界に随喜して、最大限のほめ言葉を惜しまない人々でも、ノーベル賞、世界平和賞のために日本から送られるべき候補作・・・ 宮本百合子 「現代文学の広場」
出典:青空文庫