・・・しかしそれを拾い上げる音は、いくら耳を澄ましていても、なぜか陳には聞えなかった。 こう云う物音は一つ一つ、文字通り陳の心臓を打った。陳はその度に身を震わせながら、それでも耳だけは剛情にも、じっと寝室の戸へ押しつけていた。しかし彼の興奮が・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・けれども折角拾い上げると、急に嗅いで見る気もなくなったから、黙ってテエブルの下へ落してしまった。 すると玉蘭は譚の顔を見つめ、二こと三こと問答をした。それからビスケットを受け取った後、彼女を見守った一座を相手に早口に何かしゃべり出した。・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・ 鉄冠子はそこにあった青竹を一本拾い上げると、口の中に咒文を唱えながら、杜子春と一しょにその竹へ、馬にでも乗るように跨りました。すると不思議ではありませんか。竹杖は忽ち竜のように、勢よく大空へ舞い上って、晴れ渡った春の夕空を峨眉山の方角・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・そしてその上に乗る事も、それを拾い上げる事も出来ぬのである。そしてこれから先き生きているなら、どんなにして生きていられるだろうかと想像して見ると、その生活状態の目の前に建設せられて来たのが、如何にもこれまでとは違った形をしているので、女房は・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・近代文学には、明かに、戦争反対の意図を以て書かれたものを相当拾い上げることが出来る。それらは、一般的に戦争に反対している。戦争は悲惨である。戦争は不愉快で、戦争のために、多数の人間が生命を落さなければならない。そこで、戦争に反対している。・・・ 黒島伝治 「反戦文学論」
・・・そしてその上に乗る事も、それを拾い上げる事も出来ぬのである。そしてこれから先き生きているなら、どんなにして生きていられるだろうかと想像して見ると、その生活状態の目の前に建設せられて来たのが、如何にもこれまでとは違った形をしているので、女房は・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・道傍の畑で芋を掘上げている農夫に聞いて、見失った青梅への道を拾い上げることが出来た。地図をあてにする人間が地図にない道に出逢ったほど当惑することはない。頭の中の実在と眼前の実在とが矛盾するのを発見する瞬間に自分の頭に対する信用が一度に消滅す・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・乗客が銭を投げると争ってもぐって拾い上げる。I say ! Herr Meister ! Far away, far away ! One dollar, all dive ! などと言っているらしい。自分はどうしても銭をなげる気になれなか・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・彼はその銃を拾い上げると、先登を切って敵陣の中へ突入した。彼に続いて一大隊が、一聯隊が、そうして敵軍は崩れ出した。ナポレオンの燦然たる栄光はその時から始まった。だが、彼の生涯を通して、アングロサクソンのように彼を苦しめた田虫もまた、同時にそ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫