・・・自分の過去現在の行為を振りかえって見ると、一歩もその外に出てはいない。それでもって、決して普通道徳が最好最上のものだとは信じ得ない。ある部分は道理だとも思うが、ある部分は明らかに他人の死殻の中へ活きた人の血を盛ろうとする不法の所為だと思う。・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・この青年がなんと思ったか、ちぢれた髪の上に被っていた鳥打帽を脱いで、それを高く差し伸べた手に持って岸に掛かっている船に向けて振り動かした。そして可笑しな叫声を出した。喜びの叫声を出した。この群の男等はこの青年の真似をして、みな帽を脱いでそれ・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・と出口で振り向いて、「それはあなたにおあげ申したのですわ」 藤さんが行ってしまったあとは何やら物足りないようである。たんぽぽを机の上に置く。手紙はもう書きたくない。藤さんがもう一度やってこないかと思う。ちぎった書き崩しを拾って、くち・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・長兄は、ちょっと考える振りをして、「よし、それにしよう。なるべく、甘い愛情ゆたかな、綺麗な物語がいいな。こないだのガリヴァ後日物語は、少し陰惨すぎた。僕は、このごろまた、ブランドを読み返しているのだが、どうも肩が凝る。むずかしすぎる。」率直・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ただ話し振りなどがひどくじだらくである。何をするにも、努力とか勉強とか云うことをしたことがない。そのくせ人に取り入ろうと思うと、きっと取り入る。決して失敗したことがない。 この二人は大抵極まった隅の卓に据わる。そしてコニャックを飲む。往・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ おれは聞えない振りをして、ずんずん歩いた。そうすると大騒ぎになった。電車に乗っていた連中が総立ちになる。二人はおれを追い掛けに飛んで下りる。一人は車掌に談判する。今二人は運転手に談判する。車の屋根に乗っている連中は、蝙蝠傘や帽やハンケ・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・すなわち、かみつく、引っかく、振り飛ばすというのである。ところが、水牛となるとだいぶ人間とは流儀が違う。頭を低くたれて、あの大きな二本の角を振り舞わすところは、ちょっと薙刀でも使っているような趣がある。鋒先の後方へ向いた角では、ちょっと見る・・・ 寺田寅彦 「映画「マルガ」に現われた動物の闘争」
・・・ 麦の芽は、新しく撒かれる肥料の下で、首を振り、顔を覗かして、生き生きと躍った。――ホイ、こいつぁ俺がわるかった――善ニョムさんは、首まで肥料がかぶさってしまうと、一々、肥料で黄色くなった掌で、麦の芽を掻き起してやりながら麦の芽にあやま・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・辻を北に取れば竜泉寺の門前を過ぎて千束稲荷の方へ抜け、また真直に西の方へ行けば、三島神社の石垣について阪本通へ出るので、毎夜吉原通いの人力車がこの道を引きもきらず、提灯を振りながら走り過るのを、『たけくらべ』の作者は「十分間に七十五輌」と数・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・大きな口が更に拡がって鉄漿をつけたような穢い歯がむき出して更に中症に罹った人のように頭を少し振りながら笑うのである。然し瞽女の噂をして彼に揶揄おうとするものは彼の年輩の者にはない。随って彼の交際する範囲は三四十代の壮者に限られて居るのである・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫