・・・門を出しなに振り返ると、藤さんはまだうろうろと立っている。「お早くお帰りなさいましな」「ええ」と自分は後の事は何んにも知らずに、ステッキを振り廻しながらとことこと出て行ったけれど、二人はついにこれが永き別れとなったのである。 も・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・間違ったのかと思って振り返る――兵站部は燈火の光、篝火の光、闇の中を行き違う兵士の黒い群れ、弾薬箱を運ぶかけ声が夜の空気を劈いて響く。 ここらはもう静かだ。あたりに人の影も見えない。にわかに苦しく胸が迫ってきた。隠れ家がなければ、ここで・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ で、娘も振り返る。見るとその男は両手を高く挙げて、こっちを向いておもしろい恰好をしている。ふと、気がついて、頭に手をやると、留針がない。はっと思って、「あら、私、嫌よ、留針を落としてよ」と友達に言うでもなく言って、そのまま、ばたばたと・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・と圭さんが振り返る。「ここを曲がるかね」「何でも突き当りに寺の石段が見えるから、門を這入らずに左へ廻れと教えたぜ」「饂飩屋の爺さんがか」と碌さんはしきりに胸を撫で廻す。「そうさ」「あの爺さんが、何を云うか分ったもんじゃな・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ こういうとき、彼は絶えず火を消して眠っている病舎の方を振り返るのが癖である。すると彼の頭の中には、無数の肺臓が、花の中で腐りかかった黒い菌のように転がっている所が浮んで来る。恐らくその無数の腐りかかった肺臓は、低い街々の陽のあたらぬ屋・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫