・・・ 黒い幌を掛けた俥は養生園の表庭の内まで引き入れてあった。おげんが皆に暇乞いして、その俥に乗ろうとする頃は、屋外は真暗だった。霜にでも成るように寒い晩の空気はおげんの顔に来た。暗い庭の外まで出て見送ってくれる人達の顔や、そこに立つ車夫の・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ リストが音楽商の家の階段を気軽にかけ上がって、ピアノの譜面台の上に置き捨てられたショパンの作曲に眼をつけて、やがて次第に引入れられて弾き初める、そこへいったん失望して帰りかけたショパンがそっと這入って来て、リストと背中合せに同じ曲を弾・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・これと似寄ったことでは、レーノルズの減摩油の作用の研究などもやはりそれまではほとんど物理学の圏外にあった問題をその圏内に引き入れたものだと言われよう。また同じレーノルズの砂の膨張性に関する研究は、その後あまり注目する人もなかったようである。・・・ 寺田寅彦 「物理学圏外の物理的現象」
・・・ もっともこれらの場合では、観客を一度完全にスクリーンの上の人物の内部へ引き入れてしまわなければならない。換言すれば観客を画中人物のまぶたの内側へ入れてしまわなければせっかくの技巧が意味をなさないことになる。しかし映画監督がそういう魔術・・・ 寺田寅彦 「耳と目」
・・・大勢が下車するその場の騒ぎに引入れられて何心もなく席を立ったが、すると車掌は自分が要求もせぬのに深川行の乗換切符を渡してくれた。 人家の屋根に日を遮られた往来には海老色に塗り立てた電車が二、三町も長く続いている。茅場町の通りから斜めにさ・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・仙台堀と大横川との二流が交叉するあたりには、更にこれらの運河から水を引入れた貯材池がそこ此処にひろがっていて、セメントづくりの新しい橋は大小幾筋となく錯雑している。このあたりまで来ると、運河の水もいくらか澄んでいて、荷船の往来もはげしからず・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・其性行正しく妻に接して優しければ高運なれども、或は然らず世間に珍らしからぬ獣行男子にして、内君を無視し遊冶放蕩の末、遂には公然妾を飼うて内に引入れ、一家妻妾群居の支那流を演ずるが如き狂乱の振舞もあらば之を如何せん。従前の世情に従えば唯黙して・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・まだ肩あげがあって桃われが善く似あうと人がいった位の無垢清浄玉の如きみイちャんを邪道に引き入れた悪魔は僕だ。悪魔、悪魔には違いないがしかしその時自分を悪魔とも思わないしまたみイちャんを魔道に引き入れるとも思わなかった。この間の消息を知ってる・・・ 正岡子規 「墓」
・・・ 霧の立ちこめた中に只一人立って、足元にのびて居る自分の影を見つめ耳敏く木の葉に霧のふれる響と落葉する声を聞いて居ると自と心が澄んで或る無限のさかえに引き入れられる。 口に表わされない心の喜びを感じる。 彼の水の様な家々の屋根に・・・ 宮本百合子 「秋霧」
・・・そういう人柄の味を出そうとせず、その手前で、いって見ればうわ声で、性格の特徴をあらわそうとしているために、出しおしみされているところから来る弱さと、どっと迸ったようなところとむらがあって、何かみていて引き入れられきれないものがある。こうして・・・ 宮本百合子 「映画女優の知性」
出典:青空文庫