・・・ 白崎は古綿を千切って捨てるように言った。「蓄音機に撲られるより、蓄音機を撲る方が気が利いてるよ。あの蓄音機め、こわしてやる。脱走よりは男らしいよ」「えっ? 本まか?」 赤井は思わず白崎の横顔を覗きこんだ。「本まや」・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・寺田はその葉書を破って捨てると、血相を変えて病室へはいって行った。しかし、一代は油汗を流してのたうち廻っていた。激痛の発作がはじまっていたのだ。寺田はあわててロンパンのアンプルを切って、注射器に吸い上げると、いつもの癖で針の先を上向けて、空・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・自分はその辺りに転っている鉋屑を見、そして自分があまり注意もせずに煙草の吸殻を捨てるのに気がつき、危いぞと思った。そんなことが頭に残っていたからであろう、近くに二度ほど火事があった、そのたびに漠とした、捕縛されそうな不安に襲われた。「この辺・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・アレキサンダーがペルシアの女との恋愛のために遠征を忘れ、スピノーザが性的孤独のために思索を怠り、ダヌンチオがフューメの女を恋するあまり戦いを捨てるようなことがあったとしたら、われわれは彼らのためにそれを惜しまずにはおられないであろう。 ・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・自分は人々に傚って、堤腹に脚を出しながら、帰路には捨てるつもりで持って来た安い猪口に吾が酒を注いで呑んだ。 見ると東坡巾先生は瓢も玉盃も腰にして了って、懐中の紙入から弾機の無い西洋ナイフのような総真鍮製の物を取出して、刃を引出して真直に・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・自分はまごついて冠を解き捨てる。 婦人は微笑みながら、「まあ、この間から毎日毎日お待ち申していたんですよ」という。「こんな不自由な島ですから、ああはおっしゃってもとうとお出でくださらないのかもしれないと申しまして、しまいにはみん・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・作家精神を捨てることである。不幸にあこがれたことがなかったか。病弱を美しいと思い描いたことがなかったか。敗北に享楽したことがなかったか。不遇を尊敬したことがなかったか。愚かさを愛したことがなかったか。 全部、作家は、不幸である。誰もかれ・・・ 太宰治 「緒方氏を殺した者」
・・・よしや襟飾を棄てる所は無いにしても、襟くらい棄てる所は幾らもある。 日が暮れた。熱が出て、悪寒がする。幻覚が起る。向うから来る女が口を開く。おれは好色家の感じのような感じで、あの口の中へおれの包みを入れてみたいと思った。巡査が立っている・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・学術的論文というものは審査委員だけが内証でこっそり眼を通して、そっと金庫にしまうか焼き棄てるものではない。ちゃんとどこかの公私の発表機関で発表して学界の批評を受け得る形式のものとしなければならないように規定されているのである。それで、もしも・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・それ故大正改元のころには、山谷の八百善、吉原の兼子、下谷の伊予紋、星ヶ岡の茶寮などいう会席茶屋では食後に果物を出すようなことはなかったが、いつともなく古式を棄てるようになった。 わたくしの若い時分、明治三十年頃にはわれわれはまだ林檎もバ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫