・・・その頃は電車のなかった時代だから、緑雨はお抱えの俥が毎次でも待ってるから宜いとしても、こっちはわざわざ高い宿俥で遠方まで出掛けるのは無駄だと思って、近所の安西洋料理にでも伴れて行こうもんなら何となく通人の権威を傷つけられたというような顔をし・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・もっとも、彼が部下の顔へ痰をひっ掛けるのは、機嫌のわるい時に限っていた。が、彼には機嫌の良い時は殆んどなかったから、彼の不幸な部下の中で「蓄音機の痰壺」になることを免れた幸福な兵隊は一人もいなかった。 なお、彼は部下の顔を痰壺にする代り・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・ 腰を掛ける前から呶鳴っていた。 一本のビールは瞬く間だった。「うめえ、うめえ、これに限る」 二本目のビールを飲み出した途端、Aさんがのそっとはいって来て、ものも言わず武田さんの傍に坐った。 武田さんはぎょっとしたらしか・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・道を歩くのにもできるだけ疲れないように心掛ける。棘一つ立てないようにしよう。指一本詰めないようにしよう。ほんの些細なことがその日の幸福を左右する。――迷信に近いほどそんなことが思われた。そして旱の多かった夏にも雨が一度来、二度来、それがあが・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・磯吉はふいと起って土間に下りて麻裏を突掛けるや戸外へ飛び出した。戸外は月冴えて風はないが、骨身に徹える寒さに磯は大急ぎで新開の通へ出て、七八丁もゆくと金次という仲間が居る、其家を訪ねて、十時過まで金次と将棋を指して遊んだが帰掛に一寸一円貸せ・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・ 源三の方は道を歩いて来たためにちと脚が草臥ているからか、腰を掛けるには少し高過ぎる椽の上へ無理に腰を載せて、それがために地に届かない両脚をぶらぶらと動かしながら、ちょうどその下の日当りに寐ている大な白犬の頭を、ちょっと踏んで軽く蹴るよ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・もしこれが年寄りの世話であったら、いつまでも一つ事を気に掛けるような年老いた人たちをどうしてこんなに養えるものではないと。 私たちがしきりにさがした借家も容易に見当たらなかった。好ましい住居もすくないものだった。三月の節句も近づいたころ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・それでは今回は次に一頁ほど原作者の記述をコピイして、それからまた私の、亭主と女学生についての描写をもせいぜい細かくお目に懸けることに致しましょう。女房コンスタンチェが決闘の前夜、冷たいピストルを抱いて寝て、さてその翌朝、いよいよ前代未聞の女・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・誰やらあとから追い掛ける。大きな帽子を被った潜水夫がおれの膝に腰を掛ける。 もうパリイへ行こうと思うことなんぞはおれの頭に無い。差し当りこの包みをどうにか処分しなくてはならない。どうか大地震でもあってくれればいいと思う。何もベルリンだっ・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・出歩く道がわかればわなを掛けるといいそうであるがその道がなかなかわからないと言う。それはとにかく、こんなはげ山の頂にうさぎが何を求めて歩いているのか、また蜘蛛や甲虫や蝶などといかなる「社会」を作っているのか愚かな人間には想像がつかないのであ・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
出典:青空文庫