・・・が、遠くの掛軸を指し、高い処の仏体を示すのは、とにかく、目前に近々と拝まるる、観音勢至の金像を説明すると言って、御目、眉の前へ、今にも触れそうに、ビシャビシャと竹の尖を振うのは勿体ない。大慈大悲の仏たちである。大して御立腹もあるまいけれども・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・ 夜更けの書斎で一人こんな回想に耽っていると、コトンコトンと床の間の掛軸が鳴った。雨戸の隙間からはいる風が強くなって来たらしい。千日前の話は書けそうにもない。私は首を縮めて寝床にはいった。そして大きな嚔を続けざまにしたあと、蒲団の中で足・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 兄がなくなったのは、私が大学へはいったとしの初夏でありましたが、そのとしのお正月には、応接室の床の間に自筆の掛軸を飾りました。半折に、「この春は、仏心なども出で、酒もあり、肴もあるをよろこばぬなり。」と書かれていて、訪問客は、みんな大・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・床の間には、もう北斗七星の掛軸がなくなっていて、高さが一尺くらいの石膏の胸像がひとつ置かれてあった。胸像のかたわらには、鶏頭の花が咲いていた。少女は耳の附け根まであかくなった顔を錆びた銀盆で半分かくし、瞳の茶色なおおきい眼を更におおきくして・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・それから主人の迎附けがあって、その案内に従い茶席におそるおそる躙り入るのであるが、入席したらまず第一に、釜の前に至り炉ならびに釜をつくづくと拝見して歎息をもらし、それから床の間の前に膝行して、床の掛軸を見上げ見下し、さらに大きく溜息をついて・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・という一字を大きく書いた掛軸があった。あまり上手でない字であった。いずれ、へんな名士の書であろうと思い、私は軽蔑して、ふと署名のところを見ると、双葉山である。 私は酒杯を手にして長大息を発した。この一字に依って、双葉山の十年来の私生活さ・・・ 太宰治 「横綱」
・・・という掛け軸を、今でも愛蔵している。これは漱石の晩年の心境を現わしたものだと思う。人静かにして月同じく眠るのは、単なる叙景である。人静かにして月同じく照らすというところに、当時の漱石の人間に対する態度や、自ら到達しようと努めていた理想などが・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫