・・・ 幾子は美しい横顔にぱっと花火を揚げた。「じゃ、君は入山が……」 好きなのかと皆まできかず、幾子はうなずいた。 彼は「カスタニエン」に戻ると、牛のように飲み出した。飲み出すと執拗だ。殆ど前後不覚に酔っぱらってしまった。 ・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・思わずも足を駐めて視ると、何か哀れな悲鳴を揚げている血塗の白い物を皆佇立てまじりまじり視ている光景。何かと思えば、それは可愛らしい小犬で、鉄道馬車に敷かれて、今の俺の身で死にかかっているのだ。すると、何処からか番人が出て来て、見物を押分け、・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・のない厭悪と不安な気持になって起ちあがろうとしたが、また腰をおろして、「それでね、実は、君に一寸相談を願いたいと思って来たんだがね、どんなもんだろう、どうしても今夜の七時限り引払わないと畳建具を引揚げて家を釘附けにするというんだがね、何・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・こう言って平生から感情強い佐々木は、テーブルの上に大きな身体を突附せたかと思うと、ワッと声を揚げて泣いてしまったのだ。 新調の羽織を着て、小さな身体に袴を引摺るように穿いた笹川は、やはり後ろに手を組んだまま、深く頭を垂れてテーブルと暗い・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・しく、とてもわれらの住み得べきにあらず、船を家となし風と波とに命を託す、安ければ買い高ければ売り、酒あれば飲み、大声あげて歌うもわがために耳傾くるは大空の星のみ――月さゆる夜は風清し、はてなき海に帆を揚げて――ああ君はこの歌を知りたもうや―・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・元来其頃は非常に何かが厳重で、何でも復習を了らないうちは一寸も遊ばせないという家の掟でしたから、毎日々々朝暗いうちに起きて、蝋燭を小さな本箱兼見台といったような箱の上に立てて、大声を揚げて復読をして仕舞いました。そうすれば先生のところから帰・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・悦気面に満ちて四百五百と入り揚げたトドの詰りを秋子は見届けしからば御免と山水と申す長者のもとへ一応の照会もなく引き取られしより俊雄は瓦斯を離れた風船乗り天を仰いで吹っかける冷酒五臓六腑へ浸み渡りたり それつらつらいろは四十七文字を按ずる・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ 私たち親子のものは、足掛け二年ばかりの宿屋ずまいのあとで、そこを引き揚げることにした。愛宕下から今の住居のあるところまでは、歩いてもそう遠くない。電車の線路に添うて長い榎坂を越せば、やがて植木坂の上に出られる。私たちは宿屋の離れ座敷に・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ その兄が、最近、シベリヤ方面から引揚げて来て、そうして、ケイ子の居間に、頑張っているらしいのである。 田島は、その兄と顔を合せるのがイヤなので、ケイ子をどこかへ引っぱり出そうとして、そのアパートに電話をかけたら、いけない、「自・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・ 新築の市役所の前に青年団と見える一隊が整列して、誰かが訓示でもしているらしかったが、やがて一同わあっと歓声を揚げてトラックに乗込み風のごとくどこかへ行ってしまった。 三島の青年団によって喚び起された自分の今日の地震気分は、この静岡・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
出典:青空文庫