・・・ 彼は、始め、握手することを知らなかった。それまで、握手をしたことがなかったのだ。何か悪いことをするように、胸がおどおどした。 が、まもなく、平気になってしまった。 のみならず、相手がこちらの手を強く握りかえした時には、それは、・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・いいえ沢山と申しまして、そうしてただもう、くるくると羽衣一まいを纏って舞っているように身軽く立ち働き、自惚れかも知れませぬけれども、その日のお店は異様に活気づいていたようで、私の名前をたずねたり、また握手などを求めたりするお客さんが二人、三・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・嘉七はくるり廻れ右して、「おばさん、握手。」 手をつよく握られて老妻の顔には、気まり悪さと、それから恐怖の色まであらわれていた。「酔ってるのよ。」かず枝は傍から註釈した。 酔っていた。笑い笑い老妻とわかれ、だらだら山を下るに・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・僕はかえって青扇と握手を交し、そのうえ、だらしのないことであるが、お互いのために万歳をさえとなえたのだ。 青扇のすすめるがままに、僕は縁側から六畳の居間にあがった。僕は青扇と対座して、どういう工合いに話を切りだしてよいか、それだけを考え・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・ ポルジイは暇を遣るとき握手して遣ることは出来なかった。それは自分の手が両方共塞がっていたからである。右には紙巻烟草を持っていた。左には鞭を持っていた。鞭を持っていたのは、慣れない為事で草臥れた跡で、一鞍乗って、それから身分相応の気晴ら・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・肥満した先生は名刺をくれておれと握手した。おれも名刺を献上した。見物一同大満足の体で、おれの顔を見てにこにこしている。両方の電車が動き出す。これで交通の障碍がやっと除かれたのである。おれはこの出来事のために余程興奮して来たので、議会に行くこ・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・少しはにかんだような様子をして握手をした。しかし何も話さないで黙ってコオヒイを入れ始めた。 B君の説明によると、この主婦の亡父は航海者であったそうである。両親がたまたま横浜に来ていた時に生れたのがこの娘であった。しかしまだ物心もつかない・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・ 粋の精神はまた一面において俳諧の精神と握手するところがある。露骨な真実、平板な虚欺、その二つの世界の境界に中立地帯のようにしかも高次元の空間に組み立てられた俳諧の世界がある。実と虚と相接するところに虚実を超越した真如の境地があって、そ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(※[#ローマ数字7、1-13-27])」
・・・このような科学者と芸術家とが相会うて肝胆相照らすべき機会があったら、二人はおそらく会心の握手をかわすに躊躇しないであろう。二人の目ざすところは同一な真の半面である。 世間には科学者に一種の美的享楽がある事を知らぬ人が多いようである。・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
・・・どの国もどの国も陸海軍を拡げ、税関の隔てあり、兄弟どころか敵味方、右で握手して左でポケットの短銃を握る時代である。窮屈と思い馬鹿らしいと思ったら実に片時もたまらぬ時ではないか。しかしながら人類の大理想は一切の障壁を推倒して一にならなければ止・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
出典:青空文庫