・・・春なれば茶摘みの様汽車の窓より眺めて白手拭の群にあばよなどするも興あるべしなど思いける。大谷に着く。この上は逢坂なり。この名を聞きて思い出す昔の語り草はならぶるも管なるべし。さねかずらとはどんなものかしらず、蔦這いでる崖に清水したゝって線路・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・雪渓に高山植物を摘み、火口原の砂漠に矮草の標本を収めることも可能である。 同種の植物の分化の著しいことも相当なものである。夏休みに信州の高原に来て試みに植物図鑑などと引き合わせながら素人流に草花の世界をのぞいて見ても、形態がほとんど同じ・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・道太は一つ摘みながら言った。 それからむだ話をしているうちに、じきに夕刻になった。道太は辰之助が来てから何か食べに行こうと思って待っていると、やがて彼はやってきた。そして三人そろって外へ出た。おひろだけはお化粧中だったので、少し遅れてき・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・傾きやすき冬日の庭に塒を急ぐ小禽の声を聞きつつ梔子の実を摘み、寒夜孤燈の下に凍ゆる手先を焙りながら破れた土鍋にこれを煮る時のいいがたき情趣は、その汁を絞って摺った原稿罫紙に筆を執る時の心に比して遥に清絶であろう。一は全く無心の間事である。一・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・どうかしてこの込み入った画の配合や人間の立ち廻りを鷲抓みに引っくるめてその特色を最も簡明な形式で頭へ入れたいについてはすでに幼稚な頭の中に幾分でも髣髴できる倫理上の二大性質――善か悪かを取りきめてこの錯雑した光景を締め括りたい希望からこうい・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・それに、病人は、水の中から摘み出されたゴム鞠のように、口と尻とから、夥しく、出した。それは、デッキへ洩れると、直ぐにカラカラに、出来の悪い浅草海苔のようにコビリついてしまった。「チェッ、電気ブランでも飲んで来やがったんだぜ。間抜け奴!」・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・この土筆は勿論煮てくうのであるから、東京辺の嫁菜摘みも同じような趣きではあるが、実際はそれにもまして、土筆を摘むという事その事が非常に愉快を感ずることになって居る。それで人々が争うて土筆を取りに出掛けるので郊外一、二里の所には土筆は余り沢山・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・ 網野さんは真面目な顔で差しだされた腕を一々抓み、「すこうし――ね?」と云った。「どれ」 今度は私共が各やって見た。子供のぱっちりした体をそっと抓みよせて見ても、このように指先に皮膚と筋肉との境は知覚されないだろう。・・・ 宮本百合子 「九月の或る日」
・・・ 水色格子服の女性は、若い女のように小指をぴんと伸して三鞭酒盞を摘みあげた。男も。乾杯。 三鞭酒は、気分に於て、我々の卓子にまで配られた。少し晴々し、頻りに談笑するうちに、私は謂わば活動写真的な一場面を見とめた。事実黄金色の軽快なア・・・ 宮本百合子 「三鞭酒」
・・・ 戸の撮みに手を掛けて、「さようなら」と云った平山の声が小川にはひどく不愛相に聞えた。 女中はずんずん先へ立って行く。「まだ先かい」と小川が云った。「ええ。あちらの方に煖炉が焚いてございます。」こう云って、女中は廊下の行き留・・・ 森鴎外 「鼠坂」
出典:青空文庫