・・・こうして坐って、膝の上にのせて、何度もそっと見てみる。撫でる。電車の中の皆の人にも見てもらいたいけれど、誰も見ない。この可愛い風呂敷を、ただ、ちょっと見つめてさえ下さったら、私は、その人のところへお嫁に行くことにきめてもいい。本能、という言・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・電車の窓越しに人の頸筋を撫でる小春の日光のようにうららかであったのである。 二 二千年前に電波通信法があった話 欧洲大戦の正に酣なる頃、アメリカのイリノイス大学の先生方が寄り集まって古代ギリシアの兵法書の翻訳を始め・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・額を撫でると膏汗と雨でずるずるする。余は夢中であるく。 坂を下り切ると細い谷道で、その谷道が尽きたと思うあたりからまた向き直って西へ西へと爪上りに新しい谷道がつづく。この辺はいわゆる山の手の赤土で、少しでも雨が降ると下駄の歯を吸い落すほ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・この手、この足、痒いときには掻き、痛いときには撫でるこの身体が私かと云うと、そうも行かない。痒い痛いと申す感じはある。撫でる掻くと云う心持ちはある。しかしそれより以外に何にもない。あるものは手でもない足でもない。便宜のために手と名づけ足と名・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・とりわけ女の人の声には、どこか皮膚の表面を撫でるような、甘美でうっとりとした魅力があった。すべての物象と人物とが、影のように往来していた。 私が始めて気付いたことは、こうした町全体のアトモスフィアが、非常に繊細な注意によって、人為的に構・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ ブルッ、と手で顔を撫でると、全で凍傷の薬でも塗ったように、マシン油がベタベタ顔にくっついた。そのマシン油たるや、充分に運転しているジャックハムマーの、蝶バルブや、外部の鉄錆を溶け込ませているのであったから、それは全く、雪と墨と程のよい・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・彼の手が、ブルッと顔を撫でると、口髭が生えた。さて、彼は、夏羽織に手を通しながら、入口の処で押し合っている、人混みの中へ紛れ込んだ。 旦那の眼四つは、彼を見たけれど、それは別な人間を見た。彼ではなかった。「顔ばかり見てやがらあ。足や・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
出典:青空文庫