・・・喜三郎は畳へ手をついたまま、顔を擡げる事さえ出来なかった。 その翌日、甚太夫は急に思い立って、喜三郎に蘭袋を迎えにやった。蘭袋はその日も酒気を帯びて、早速彼の病床を見舞った。「先生、永々の御介抱、甚太夫辱く存じ申す。」――彼は蘭袋の顔を・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・すると彼は腰を擡げるが早いか、ダム何とか言いながら、クルウェットスタンドを投げつけようとした。「よせよ。そんな莫迦なことをするのは。」 僕は彼を引きずるようにし、粉雪のふる往来へ出ることにした。しかし何か興奮した気もちは僕にも全然な・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・ 尾を撮んで、にょろりと引立てると、青黒い背筋が畝って、びくりと鎌首を擡げる発奮に、手術服という白いのを被ったのが、手を振って、飛上る。「ええ驚いた、蛇が啖い着くです――だが、諸君、こんなことでは無い。……この木製の蛇が、僕の手練に・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・肉親に不吉がありそうな、友達に裏切られているような妄想が不意に頭を擡げる。 ちょうどその時分は火事の多い時節であった。習慣で自分はよく近くの野原を散歩する。新しい家の普請が到るところにあった。自分はその辺りに転っている鉋屑を見、そして自・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・堅い地を割って、草の芽も青々とした頭を擡げる時だ。彼は自分の内部の方から何となく心地の好い温熱が湧き上って来ることを感じた。 例のように、会社の見廻りに行く時が来た。大塚さんは根岸にある自宅から京橋の方へ出掛けて、しばらく会社で時を移し・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・そうして扁平な頭をぶるぶると擡げるのみで追うて人を噛むことはない。太十も甞て人を打擲したことがなかった。彼はすぐ怒るだけに又すぐに解ける。殊に瞽女のお石と馴染んでからはもうどんな時でもお石の噺が出れば相好を崩して畢う。大きな口が更に拡がって・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・この笑う刹那には倫理上の観念は毫も頭を擡げる余地を見出し得ない訳ですから、たとい道徳的批判を下すべき分子が混入してくる事件についても、これを徳義的に解釈しないで、徳義とはまるで関係のない滑稽とのみ見る事もできるものだと云う例証になります。け・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・若し、飯場の人たちが、親も子も帰らない事を気遣って、探しに来なかったならば、その親たちと同じ運命になるのであったほど、執拗に首を擡げる事を続けたであろう。 飯場の血気な労働者たちは、すっかり暗くなった吹雪の中で、屍体の首を無理にでも・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・久しぶりに俺の鞭も命を感じて鎌首を擡げるようだ。どれ、どれ。(にじり出した、宮の端から下界を瞰下一寸下を覗かせろ。愚鈍な人間共が、何も知らずに泰平がっている有様を、もう一息の寿命だ。見納めに見てやろう。ヴィンダー 俺の大三叉も、そろりそ・・・ 宮本百合子 「対話」
・・・ スースーとちょっとずつ区切りをつけながら、蜘蛛が糸を下げるように、だんだんと真暗な底の知らないところへ体が落ちて行くように感じながら、どうしても自分で頭を擡げることの出来ないでいた禰宜様宮田は、このときハッと思うと同時に、急に自分の体・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
出典:青空文庫