・・・――さあ、左の手を放すのだよ。」 権助はその言葉が終らない内に、思い切って左手も放しました。何しろ木の上に登ったまま、両手とも放してしまったのですから、落ちずにいる訣はありません。あっと云う間に権助の体は、権助の着ていた紋附の羽織は、松・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・ 下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球がの外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗く黙ってい・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・ 静に放すと、取られていた手がげっそり痩せて、着た服が広くなって、胸もぶわぶわと皺が見えるに、屹と目をみはる肩に垂れて、渦いて、不思議や、己が身は白髪になった、時に燦然として身の内の宝玉は、四辺を照して、星のごとく輝いたのである。 ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 炎というだが、変な火が、燃え燃え、こっちへ来そうだで、漕ぎ放すべいと艪をおしただ。 姉さん、そうすると、その火がよ、大方浪の形だんべい、おらが天窓より高くなったり、船底へ崖が出来るように沈んだり、ぶよぶよと転げやあがって、船脚へつ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・と切って放すと、枝も葉も萎々となって、ばたり。で、国のやみが明くなった――そんな意味だったと思います。言葉は気をつけなければ不可ませんね。 食不足で、ひくひく煩っていた男の児が七転八倒します。私は方々の医師へ駆附けた。が、一人も来ません・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・お目に掛けましての上は、水に放すわいやい。」 と寄せた杖が肩を抽いて、背を円く流を覗いた。「この魚は強いぞ。……心配をさっしゃるな。」「お爺さん、失礼ですが、水と山と違いました。」 私も笑った。「茸だの、松露だのをちっと・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ずっと寄れ、さあこの身体につかまってその動悸を鎮めるが可い。放すな。」と爽かにいった言につれ、声につれ、お米は震いつくばかり、人目に消えよと取縋った。「婆さん、明を。」 飛上るようにして、やがてお幾が捧げ出した灯の影に、と見れば、予・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ と馬鹿調子のどら声を放す。 ひょろ長い美少年が、「おうい。」 と途轍もない奇声を揚げた。 同時に、うしろ向きの赤い袖が飜って、頭目は掌を口に当てた、声を圧えたのではない、笛を含んだらしい。ヒュウ、ヒュウと響くと、たちま・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・「何、あっちで放すものかね。――電報一本で、遠くから魔術のように、旅館の大戸をがらがらと開けさせて、お澄さんに、夜中に湯をつかわせて、髪を結わせて、薄化粧で待たせるほどの大したお客なんだもの。」「まあ、……だって貴方、さばき髪でお迎・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ と打棄り放す。 大提灯にはたはたと翼の音して、雲は暗いが、紫の棟の蔭、天女も籠る廂から、鳩が二三羽、衝と出て飜々と、早や晴れかかる銀杏の梢を矢大臣門の屋根へ飛んだ。 胸を反らして空模様を仰ぐ、豆売りのお婆の前を、内端な足取り、・・・ 泉鏡花 「妖術」
出典:青空文庫