・・・乙地でそれを認めたらすぐ返答にその松明を上げて同時に土器の底の栓を抜いて放水を始める。甲地でも乙の松明の上がると同時に底の栓を抜く。そうして浮かしてある栓の棒がだんだんに下がって行って丁度所要の文句を書いた区分線が器の口と同高になった時を見・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・ 荒川放水路の水量を調節する近代科学的閘門の上を通って土手を数町川下へさがると右にクラブハウスがあり左にリンクが展開している。 クラブの建物はいつか覗いてみた朝霞村のなどに比べるとかなり謙遜な木造平家で、どこかの田舎の学校の運動場に・・・ 寺田寅彦 「ゴルフ随行記」
・・・江戸川の水勢を軟らげ暴漲の虞なからしむる放水路の関門であることは、その傍まで行って見なくとも、その形がその事を知らせている。 水の流れは水田の唯中を殆ど省線の鉄路と方向を同じくして東へ東へと流れて行く。遠くに見えた放水路の関門は忽ち眼界・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
隅田川の両岸は、千住から永代の橋畔に至るまで、今はいずこも散策の興を催すには適しなくなった。やむことをえず、わたくしはこれに代るところを荒川放水路の堤に求めて、折々杖を曳くのである。 荒川放水路は明治四十三年の八月、都下に未曾有の・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・これは荒川の河流が放水路の開通と共に、如何に険悪な天侯にも決して汎濫する恐れがなくなったためかとも思われる。吉原の遊廓外にあった日本堤の取崩されて平かな道路になったのも同じ理由からであろう。実例としては明治四十三年八月に起った水害の後、東京・・・ 永井荷風 「水のながれ」
・・・堀切のあたりは放水路の流がまだ出来ない時代には樹木の繁った間に小川が流れ込んでいた全くの田園で、菖蒲を植えた庭も四、五カ処はあって、いずれも風流を喜ぶ人にはその名を知られていたが、田が埋められて町になると、今では一、二カ処しか残っていず、し・・・ 永井荷風 「向島」
・・・しかし蘆荻蒹葭は日と共に都市の周囲より遠けられ、今日では荒川放水路の堤防から更に江戸川の沿岸まで行かねば見られぬようになった。中川の両岸も既に隅田川と同じく一帯に工場の地となり小松川の辺は殊に繁華な市街となっている。 蒹葭は秋より冬に至・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・わたくしはその日地図を持って来なかったので、この新道路はどこへ出るものやら更に見当がつかなかったのであるが、しかしその果はいずれ放水路の堤に行き当っているにちがいない。堤に出さえすれば位置も方角も自然にわかるはずだと考え、案内知らぬ道だけに・・・ 永井荷風 「元八まん」
出典:青空文庫