・・・今度は故郷の三津を想像して、波打ち際で、別を惜むことにしようと思うたがそれもいえず。遂に「見送るや酔のさめたる舟の月」という句が出来たのである。誠に振わぬ句であるけれど、その代り大疵もないように思うて、これに極めた。 今まで一句を作るに・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・ ある日昔のその村から出て今アメリカのある大学の教授になっている若い博士が十五年ぶりで故郷へ帰って来ました。 どこに昔の畑や森のおもかげがあったでしょう。町の人たちも大ていは新らしく外から来た人たちでした。 それでもある日博士は・・・ 宮沢賢治 「虔十公園林」
・・・それがどんなに傷つき不具となっていようとも其故にこそ、ひとしお懐しい生れ故郷である日本を見離しがたく思っている。 その心持を誠意のこもった現実の力として表現しようとするとき私たちは、一つの救国運動として故国に対する人民の愛と必要に立つ統・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・腰に帯びた刀は二尺四寸五分の正盛で、先祖島村弾正が尼崎で討死したとき、故郷に送った記念である。それに初陣の時拝領した兼光を差し添えた。門口には馬がいなないている。 手槍を取って庭に降り立つとき、数馬は草鞋の緒を男結びにして、余った緒を小・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・死んでも誰にも祭られず……故郷では影膳をすえて待ッている人もあろうに……「ふる郷に今宵ばかりの命とも知らでや人のわれをまつらむ」……露の底の松虫もろとも空しく怨みに咽んでいる。それならそれが生きていた内は栄華をしていたか。なかなかそうばかり・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・梶は栖方の故郷をA県のみを知っていて、その県のどこかは知らなかったが、初め来たとき梶は栖方に、君の生家の近くに平田篤胤の生家がありそうな気がするが、と一言訊くと、このときも「百メータ、」と明瞭にすぐ答えた。また、海軍との関係の成立した日の腹・・・ 横光利一 「微笑」
・・・夢を見ているように美しい、ハムレット太子の故郷、ヘルジンギヨオルから、スウェエデンの海岸まで、さっぱりした、住心地の好さそうな田舎家が、帯のように続いていて、それが田畑の緑に埋もれて、夢を見るように、海に覗いている。雨を催している日の空気は・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・徳蔵おじはモウ年が寄って、故郷を離れる事が出来ないので、七年という実に面白い気楽な生涯をそこで送り、極おだやかに往生を遂る時に、僕をよんで、これからは兼て望の通り、船乗りになっても好といいました。僕は望が叶たんだから、嬉しいことは嬉しいけれ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・彼はおそらくイタリアにおいて、フランスにおいて、故郷に帰ったような心の落ちつきを感ずるであろう。そうしてそれは彼を再び十年前の夢に引き戻すであろう。そこで昔の師が再び彼の心を捕えなくてはならぬ。自分は彼のヨーロッパ紀行に楽しい望みをかける点・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
出典:青空文庫