・・・櫨紅葉は半ば散りて半ば枝に残りたる、風吹くごとに閃めき飛ぶ。海近き河口に至る。潮退きて洲あらわれ鳥の群、飛び回る。水門を下ろす童子あり。灘村に舟を渡さんと舷に腰かけて潮の来るを待つらん若者あり。背低き櫨堤の上に樹ちて浜風に吹かれ、紅の葉ごと・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・林の中のようすが間断なく移り変わッた、あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、隈なくあかみわたッて、さのみ繁くもない樺のほそぼそとした幹は思いがけずも白絹めく、やさしい光沢を帯び、地上に散り布いた、細かな落ち葉はにわかに日に映・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・姉は島原妹は他国 桜花かや散りぢりに 真鍋博士の夫人は遺言して「自分の骨は埋めずに夫の身の側に置いて下さい」といわれたときく。が博士もまた先ごろ亡くなられた。今は二人の骨は一緒に埋められて、一つの墓石となられたであろう。・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・彼は、三人のあとから、山の根の運び出した薪を散り/\に放り出してある畠のところまでついて来た。 三人は仕様がなかった。そこで薪積みを始めた。スパイは、煙草屋でせしめてきた「朝日」を吸って、なか/\去ろうとしない。 薪は百姓に取って、・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・そして脚を抜く時に蹴る雪が、イワンの顔に散りかかって来た。そういう走りにくいところへ落ちこめば落ちこむほど、馬の疲労は増大してきた。 橇が、兵士の群がっている方へ近づき、もうあと一町ばかりになった時、急に兵卒が立って、ばらばらに前進しだ・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・男はこれに構わず、膳の上に散りし削たる鰹節を鍋の中に摘み込んで猪口を手にす。注ぐ、呑む。「いいかエ。「素敵だッ、やんねえ。 女も手酌で、きゅうと遣って、その後徳利を膳に置く。男は愉快気に重ねて、「ああ、いい酒だ、サルチルサン・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・赤い火花がセメントのたたきにぱっと散りひろがって、消えた。「ええ。それは、なんとかします。あてがあります。あなたには感謝しています。もうすこし待っていただけないでしょうか。もうすこし。」 僕は二本目の煙草をくわえ、またマッチをすった・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・「いや、散りず、散りずみ。」「ちがいます。散りみ、散り、みず。」 みんな笑った。 お祭りのまえの日、というものは、清潔で若々しく、しんと緊張していていいものだ。境内は、塵一つとどめず掃き清められていた。「展覧会の招待日み・・・ 太宰治 「春昼」
・・・そして花片の散り落ちるように、また漏刻の時を刻むように羯鼓の音が点々を打って行くのである。 ここが聞きどころつかまえどころと思われるような曲折は素人の私には分らない。しかしそこには確かに楽の中から流れ出て地と空と人の胸とに滲透するある雰・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・すると子供らも散り散りに帰って行く。あとはしんとして死んだような空気が広場をとざしてしまうのである。いつか塒に迷うた蝙蝠を追うて荒れ地のすみまで行ったが、ふと気がついて見るとあたりにはだれもいぬ。仲間も帰ったか声もせぬ。・・・ 寺田寅彦 「花物語」
出典:青空文庫