・・・ 逢うごとにいつもその悠然たる貴族的態度の美と洗錬された江戸風の性行とが、そぞろに蔵前の旦那衆を想像せしむる我が敬愛する下町の俳人某子の邸宅は、団十郎の旧宅とその広大なる庭園を隣り合せにしている。高い土塀と深い植込とに電車の響も自ずと遠・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・くも政を語る者は他の尊敬を蒙り、またしたがって衣食の道にも近くして、身を起すに容易なるその最中に、自家の学問社会をかえりみれば、生計得べきの路なきのみならず、蛍雪幾年の辛苦を忍耐するも、学者なりとして敬愛する人さえなき有様なれば、むしろ書を・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・在昔は、社会の秩序、すべて相依るの風にして、君臣、父子、夫婦、長幼、たがいに相依り相依られ、たがいに相敬愛し相敬愛せられ、両者相対して然る後に教を立てたることなれども、今日自主独立の教においては、まず我が一身を独立せしめ、我が一身を重んじて・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・ 然らば即ち敬愛は夫婦の徳にして、この徳義を修めてこれを今日の実際に施すの法如何と尋ぬるに、夫婦利害を共にし苦楽喜憂を共にするは勿論、あるいは一方の心身に苦痛の落ち来ることもあれば、人力の届く限りはその苦痛を分担するの工風を運らさざるべ・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・女の子の心持にすれば、結婚をするにも父鴎外を自分に近い程度で敬愛するひと、少くとも熱中している自分の感情を傷けるようなものを持たぬひととの結合が、自ら生じがちであろう。 長女茉莉子さんの長子が、やはり西洋風の発音で、漢字名をつけられてい・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
・・・カールがイエニーを全く独立の見識をもった一婦人として敬愛し、友人の間にもそれが承認されていたことがうかがわれる。自分で詩も創り、生涯文学を愛したカール。大学生であった許婚のカールか贈られた四冊の詩集を、生涯大事にして持っていたイエニー。愛と・・・ 宮本百合子 「カール・マルクスとその夫人」
・・・故寺田寅彦博士の存在は、文化の綜合的な享楽者または与え手という意味で、多数の人々の敬愛をあつめている。絵も描き、文章に達し、音楽も愛し、しかも音楽の演奏ぶりなどにはなかなか近親者に忘れがたい好感を与えるユーモアがあふれていたようである。日本・・・ 宮本百合子 「作家のみた科学者の文学的活動」
わが師という響のなかには敬愛の思いがこもっていて、私としては忘られない一つの俤がそこに繁っている。 千葉安良先生は、今どこで、どのように生活していらっしゃるだろう。 二十余年も前、お茶の水の女学校の先生をして居られ・・・ 宮本百合子 「時代と人々」
・・・を与えられた彼女は、その自分が神と呼び、守霊と呼びかけて、人と人との交渉においては、どうしても満たされない絶対的服従の渇仰と、愛情とを傾け尽して敬愛しているものをも、やはり或る一つの「心持」を感じるのだとほか云いようがなかったのである。・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・ 知識慾の燃える者は、その方向から、軟かな、当途のない情緒に満ちたものは、只漠然とした好もしさから、先生に接する程のものは、皆、先生を敬愛した。然し、なれ易いところはなかった。 今になって考えれば、理想主義的現実主義とでも云うべき先・・・ 宮本百合子 「弟子の心」
出典:青空文庫