・・・ ファウストは敬虔の念のためか、一度も林檎を食ったことはなかった。が或嵐の烈しい夜、ふと腹の減ったのを感じ、一つの林檎を焼いて食うことにした。林檎は又この時以来、彼には食物にも変り出した。従って彼は林檎を見る度に、モオゼの十戒を思い出し・・・ 芥川竜之介 「三つのなぜ」
・・・僕はただかの自ら敬虔の情を禁じあたわざるがごとき、微妙なる音調を尚しとするものである。 そこで文章の死活がまたしばしば音調の巧拙に支配せらるる事の少からざるを思うに、文章の生命はたしかにその半以上懸って音調の上にあることを信ずるのである・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 私が初めて甚深の感動を与えられ、小説に対して敬虔な信念を持つようになったのはドストエフスキーの『罪と罰』であった。この『罪と罰』を読んだのは明治二十二年の夏、富士の裾野の或る旅宿に逗留していた時、行李に携えたこの一冊を再三再四反覆して・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・彼等のすべてが人道主義者として、また殉教的な敬虔な心の持主として、人生のために戦うに至るのもこれあるがためです。 こゝに於て、芸術は畢竟享楽のためでなくして、一個の目的を有さなければならぬことを知ることが出来ます。 私は、この美に向・・・ 小川未明 「芸術は生動す」
・・・博士は、敬虔な生物学者に共通の博愛心から、「かわいそうにな、ありは、勤勉な虫だが、どういうものか、みんなにきらわれる。熱湯でもかければ、死ぬには死ぬが……」と、答えられたのです。「ありと蜂」の生活についてファーブルに比すべき研究のあった・・・ 小川未明 「近頃感じたこと」
・・・優れた芸術家は常に人生の両面を観ているのみならず、いつも敬虔の心と固い信念とを以て作を続けている。そうして其等の人たちは現実には楽しみもあれば苦しみもあり、またヨリ多くの苦痛のあることも知っているし、平和の姿もあれば争闘の姿もあるということ・・・ 小川未明 「囚われたる現文壇」
・・・斯くして人道主義の最も敬虔にして勇敢な戦士の赤誠を心ある人々の胸から胸へ伝えている。 こうした涙ぐましい、謙譲にして真摯の芸術こそ、今日のような虚偽と冷酷と圧迫と犠牲とを何とも思っていない時代によって、まさしく正しい人々の胸に革新の火を・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
・・・ 読書の根本原理が暖かき敬虔でなくてはならぬのはこのためである。 二 生、労作そして自他 書物は他人の生、労作の記録、贈り物である。それは共存者のものではあっても、自分のものではない。自分の生、労作は厳として別に・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・ ガンジーの母は、ガンジーがロンドンに勉強しに行こうとするとき、インドの母らしい敬虔な心から、わが子がヨーロッパの悪風に染むことを恐れてなかなか許そうとしなかった。決してそんなことのない誓いをさせてやっと許した。 源信僧都の母は、僧・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・は人間の心を沈潜させ敬虔にさせ、しみじみとさせずにはおかない。私は必ずしも感傷的にとはいわない。何故なら深い別れというものは涙を噛みしめ、この生のやむなき事実に忍従したもので、そこには知性も意志も働いた上のことだからである。 人間が合い・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
出典:青空文庫