・・・ 吉弥の病気はそうひどくないにしても、罰当り、業さらしという敵愾心は、妻も僕も同じことであった。しかし、向うが黴毒なら、こちらはヒステリ――僕は、どちらを向いても、自分の耽溺の記念に接しているのだ。どこまで沈んで行くつもりだろう?「・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 敵愾心を感じたり、恐怖を感じたりするのは、むしろ戦闘をしていない時、戦闘が始る前である。シベリアでの経験であるが、戦闘であることを思うと、どうしても気持が荒々しくなり、投げやりになり、その日暮しをするようになる。家から、手紙に札を巻き・・・ 黒島伝治 「戦争について」
・・・ 骨組のしっかりした男の表情には、憎悪と敵愾心が燃えていた。それがいつまでも輝いている大きい眼から消えなかった。 四 百姓たちは、たびたび××の犬どもを襲撃した経験を持っていた。 襲撃する。追いかえされる・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・とか云った日米戦争未来記が市場に洪水している如く、日露戦争前にあっては、日露戦争未来記が簇出して、いやが上にも敵愾心をあおり立てゝいたことである。 これらの戦争に関連した諸々の際物的流行は、周知の如く、文学作品として、歴史の批判に堪え得・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・目色、毛色が違うという事が、之程までに敵愾心を起させるものか。滅茶苦茶に、ぶん殴りたい。支那を相手の時とは、まるで気持がちがうのだ。本当に、此の親しい美しい日本の土を、けだものみたいに無神経なアメリカの兵隊どもが、のそのそ歩き廻るなど、考え・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・ しかし、また一方、この同じ心理がたとえば戦時における祖国愛と敵愾心とによって善導されればそれによって国難を救い戦勝の栄冠を獲得せしめることにもなるであろう。 しかしまた、同じような考え方からすれば、結局ナポレオンも、レーニンも、ム・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・それ故にまた重吉は、他の同輩の何人よりも、無智的な本能の敵愾心で、チャンチャン坊主を憎悪していた。軍が平壌を包囲した時、彼は決死隊勇士の一人に選出された。「中隊長殿! 誓って責務を遂行します。」 と、漢語調の軍隊言葉で、如何にも日本・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・それはこうだ――何でも露国との間に、かの樺太千島交換事件という奴が起って、だいぶ世間がやかましくなってから後、『内外交際新誌』なんてのでは、盛んに敵愾心を鼓吹する。従って世間の輿論は沸騰するという時代があった。すると、私がずっと子供の時分か・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・それは決して狭い愛国心とか敵愾心とかいうものではなかった。科学者としての自分の任務を、がらんとした研究所の机の前で自分に問うた時マリアの心に浮かんだものは、十年ばかり前のある日曜日の朝の光景ではなかったろうか。それはケレルマン通の家で、一通・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人」
・・・ 地方の女学校に教師をしている友達が、面に恐怖を浮べて、対校競技の時他の教師達がこぞって競争学校の生徒に対する女学生の敵愾心、反感を煽る有様について語ったことをも、現実の問題として思い浮ぶのです。〔一九三三年十一月〕・・・ 宮本百合子 「現実の問題」
出典:青空文庫