・・・見上げる軒端を斜めに黒い雨が顔にあたる。脚気を気にする男は、指を立てて坤の方をさして「あちらだ」と云う。鉄牛寺の本堂の上あたりでククー、ククー。「一声でほととぎすだと覚る。二声で好い声だと思うた」と再び床柱に倚りながら嬉しそうに云う。こ・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・裂目を洩れて斜めに大理石の階段を横切りたる日の光は、一度に消えて、薄暗がりの中に戸帳の模様のみ際立ちて見える。左右に開く廻廊には円柱の影の重なりて落ちかかれども、影なれば音もせず。生きたるは室の中なる二人のみと思わる。「北の方なる試合に・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 膳と斜めに、ぼんやり箪笥にもたれている吉里に対い、うまくもない酒と太刀打ちをしているのは善吉である。吉里は時々伏目に善吉を見るばかりで、酌一つしてやらない。お熊は何か心願の筋があるとやらにて、二三の花魁の代参を兼ね、浅草の観世音へ朝参・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 歩哨はスナイドル式の銃剣を、向こうの胸に斜めにつきつけたまま、その眼の光りようや顎のかたち、それから上着の袖の模様や靴のぐあい、いちいち詳しく調べます。「よし、通れ」 伝令はいそがしく羊歯の森のなかへはいって行きました。 ・・・ 宮沢賢治 「ありときのこ」
・・・ ランプがいつか心をすっかり細められて障子には月の光が斜めに青じろく射している。盆の十六日の次の夜なので剣舞の太鼓でも叩いたじいさんらなのかそれともさっきのこのうちの主人なのかどっちともわからなかった。(踊りはねるも三十がしまいって・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・ 十二月の晴々した日かげは、斜めに明るく彼等の足許を照し、新しい家の塗料の微かな匂いと花の呼吸するほのかな香とが、冬枯れた戸外を見晴す広縁に漂った。〔一九二五年五月〕 宮本百合子 「或る日」
・・・幌をはずして若い女が斜めに乗り、白い小さい顔が幸福そうに笑っている。見ると、俥の後に一人若い袴をつけた男が捉り、俥と共に走っていた。更に数間遅れて一かたまりの学生が、「一菊バンザーイ! 一菊バンザーイ!」 歓声をあげ、俥を追って駈け・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・ 緋の淡き地におなじいろの濃きから草織り出だしたる長椅子に、姫は水いろぎぬの裳のけだかきおお襞の、舞のあとながらつゆくずれぬを、身をひねりて横ざまに折りて腰かけ、斜めに中の棚の花瓶を扇のさきもてゆびさしてわれに語りはじめぬ。「はや去・・・ 森鴎外 「文づかい」
・・・すると、乞食は焦点の三に分った眼差しで秋三を斜めに見上げながら、「俺は安次や。心臓をやられてさ。うん、ひどい目にあった。」と彼から云った。 秋三は自分の子供時代に見た村相撲の場景を真先に思い浮かべた。それは、負けても賞金の貰える勝負・・・ 横光利一 「南北」
・・・私の斜めうしろには暗い枝の間から五日ばかりの月が幽かにしかし鋭く光っている。私の頭の上にはオライオン星座が、讃歌を唱う天使の群れのようににぎやかに快活にまたたいている。人間を思わせる燈火、物音、その他のものはどこにも見えない。しかしすべてが・・・ 和辻哲郎 「創作の心理について」
出典:青空文庫