・・・祝儀らしい真似もしない悲しさには、柔い粥とも誂えかねて、朝立った福井の旅籠で、むれ際の飯を少しばかり。しくしく下腹の痛む処へ、洪水のあとの乾旱は真にこたえた。鳥打帽の皺びた上へ手拭の頬かむりぐらいでは追着かない、早や十月の声を聞いていたから・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・……私が覚えてからも、むかし道中の茶屋旅籠のような、中庭を行抜けに、土間へ腰を掛けさせる天麩羅茶漬の店があった。――その坂を下りかかる片側に、坂なりに落込んだ空溝の広いのがあって、道には破朽ちた柵が結ってある。その空溝を隔てた、葎をそのまま・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ ここは弥次郎兵衛、喜多八が、とぼとぼと鳥居峠を越すと、日も西の山の端に傾きければ、両側の旅籠屋より、女ども立ち出でて、もしもしお泊まりじゃござんしないか、お風呂も湧いていずに、お泊まりなお泊まりな――喜多八が、まだ少し早いけれど……弥・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・――少い経験にしろ、数の場合にしろ、旅籠でも料理屋でも、給仕についたものから、こんな素朴な、実直な、しかも要するに猪突な質問を受けた事はかつてない。 ところで決して不味くはないから、「ああ、おいしいよ。」 と言ってまた箸を付けた・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ ええもう小川で一等の旅籠屋、畳もこのごろ入換えて、障子もこのごろ張換えて、お湯もどんどん沸いております。」 と年甲斐もない事を言いながら、亭主は小宮山の顔を見て、いやに声を密めたのでありますな、怪からん。「へへへ、好い婦人が居りま・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・挙句が江戸の馬喰町に落付いて旅籠屋の「ゲダイ」となった。この「ゲダイ」というは馬喰町の郡代屋敷へ訴訟に上る地方人の告訴状の代書もすれば相談対手にもなる、走り使いもすれば下駄も洗う、逗留客の屋外囲の用事は何でも引受ける重宝人であった。その頃訴・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 夜、安代の旅籠屋で琵琶歌があるから、聞きに行かぬかと誘われたけれど行かなかった。日が暮れると、按摩の笛の音が淋しく聞かれるばかりである。 此の頃来たという美しい女の飴売が、二人の子供を連れて太鼓を叩きながら、田中の方から、昼も、夜・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・そういう中にも、私の胸を突いたのは今夜の旅籠代である。私もじつは前後の考えなしにここへ飛びこんだものの、明朝になればさっそく払いに困らねばならぬ。この地へ着くまでに身辺のものはすっかり売りつくして、今はもう袷とシャツと兵児帯と、真の着のみ着・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・この町はずれに、どっしりした古い旅籠がある。問題の姉妹は、その旅館のお嬢さんである。姉は二十二、妹は十九。ともに甲府の女学校を卒業している。下吉田町の娘さん達は、たいてい谷村か大月の女学校へはいる。地理的に近いからだ。甲府は遠いので通学には・・・ 太宰治 「律子と貞子」
・・・田舎へ行脚に出掛けた時なども、普通の旅籠の外に酒一本も飲まぬから金はいらぬはずであるが、時々路傍の茶店に休んで、梨や柿をくうのが僻であるから、存外に金を遣うような事になるのであった。病気になって全く床を離れぬようになってからは外に楽みがない・・・ 正岡子規 「くだもの」
出典:青空文庫