・・・ いずれ、金目のものではあるまいけれども、紅糸で底を結えた手遊の猪口や、金米糖の壷一つも、馬で抱き、駕籠で抱えて、長い旅路を江戸から持って行ったと思えば、千代紙の小箱に入った南京砂も、雛の前では紅玉である、緑珠である、皆敷妙の玉である。・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・ 若いがんたちは、いくばくもなくして、この年とったがんを冒険の旅路の案内にさせたことは、無理であり、また、気の毒であったことを感じました。けれど、どうすることもできません。そして、こういたわると、年とったがんは、若いものにみずからの力の・・・ 小川未明 「がん」
・・・ 熱沙限りなきサハラを旅する隊商も時々は甘き泉わき緑の木陰涼しきオーシスに行きあいて堪え難き渇きと死ぬばかりなる疲労を癒する由あれど、人生まれ落ちての旅路にはただ一度、恋ちょう真清水をくみ得てしばしは永久の天を夢むといえども、この夢はさ・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・そしてまた舟を出して自分の旅路に上ってしまった。 それから半歳余り経た頃、また周丹泉が唐太常をおとずれた。そして丹泉は意気安閑として、過ぐる日の礼を述べた後、「御秘蔵のと同じような白定鼎をそれがしも手に入れました」といった。唐太常は吃驚・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・しかし、ながい旅路の疲れから、私はかえって大胆になっていた。私はこういう咆哮をさえ気にかけず島をめぐり歩いたのである。 私は島の単調さに驚いた。歩いても歩いても、こつこつの固い道である。右手は岩山であって、すぐ左手には粗い胡麻石が殆ど垂・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・マグダレニアンの壁画とシャバンヌの壁画の間の距離はいかに大きくとも、それはただ一筋の道を長くたどって来た旅路の果ての必然の到達点であるとも言われなくはない。ダホメーの音楽とベートーヴェンの第九シンフォニーとの比較でもそうである。 映画に・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・による永い旅路の門出の場面などでも、こうした映画の中で見ていると、いつの間にか見ている自分が百年前のワルシャウの人になってしまう。そうして今までに読んだ物語や伝記の中の色々の類似の場面などが甦って眼前に活動するような気がする。そういう意味で・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・例えば家なき児レミがミリガン夫人に別れを告げて船を下りてから、ヴイタリス老人とちょっと顔を見合せて、そうしてあてのない旅路をふみ出すところなどでも、何でもないようで細かい情趣がにじんでいる。永い旅路と季節の推移を示す短いシーンの系列など、ま・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(5[#「5」はローマ数字、1-13-25])」
・・・この果てなく見える旅路が偶然にもわれわれの現代に終結して、これでいよいよ彼岸に到達したのだと信じうるだけの根拠を見いだすのは私には困難である。 それで私は現在あるがままの相対性理論がどこまで保存されるかという事は一つの疑問になりうると思・・・ 寺田寅彦 「相対性原理側面観」
・・・年齢はおよそ主人と同じ位なり。旅路にて汚れたりと覚しき衣服を纏いいる。左の胸に突込んだるナイフの木の柄現われおる。この男舞台の真中男。はあ。君はまだこの世に生きているな。永遠の洒落者め。君はまだホラチウスの書なぞを読んで世を嘲っているの・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫