・・・ 二 その日のかれこれ同じ時刻に、この家の外を通りかかった、年の若い一人の日本人があります。それがどう思ったのか、二階の窓から顔を出した支那人の女の子を一目見ると、しばらくは呆気にとられたように、ぼんやり立ちすくんで・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・……長男となれば、日本では、なんといってもお前にあとの子供たちのめんどうがかかるのだから……」 父の言葉はだんだん本当に落ち着いてしんみりしてきた。「俺しは元来金のことにかけては不得手至極なほうで、人一倍に苦心をせにゃ人並みの考えが・・・ 有島武郎 「親子」
・・・A 長生はする。昔から人生五十というが、それでも八十位まで生きる人は沢山ある。それと同じ程度の長生はする。しかし死ぬ。B 何日になったら八十になるだろう。A 日本の国語が統一される時さ。B もう大分統一されかかっているぜ。小・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・浜も日本も見えやしねえで、お星様が映りそうで、お太陽様は真蒼だ。姉さん、凪の可い日でそうなんだぜ。 処を沖へ出て一つ暴風雨と来るか、がちゃめちゃの真暗やみで、浪だか滝だか分らねえ、真水と塩水をちゃんぽんにがぶりと遣っちゃ、あみの塩からを・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 超世的詩人をもって深く自ら任じ、常に万葉集を講じて、日本民族の思想感情における、正しき伝統を解得し継承し、よってもって現時の文明にいささか貢献するところあらんと期する身が、この醜態は情ない。たとい人に見らるるの憂いがないにせよ、余儀な・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 椿岳の名は十年前に日本橋の画博堂で小さな展覧会が開かれるまでは今の新らしい人たちには余り知られていなかった。展覧会が開かれても、案内を受けて参観した人は極めて小部分に限られて、シカモ多くは椿岳を能く知ってる人たちであったか・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・しかしながら日本人お互いに今要するものは何であるか。本が足りないのでしょうか、金がないのでしょうか、あるいは事業が不足なのでありましょうか。それらのことの不足はもとよりないことはない。けれども、私が考えてみると、今日第一の欠乏は Life ・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・お姉さまは、「ああ、日本でできたのもあるのよ。」といわれました。 露子の目には、それらの楽器は黙っているのですが、ひとつひとつ、いい、奇しい妙な、音色をたてて、震えているように見えたのであります。そして、晩方など、入り日の紅くさ・・・ 小川未明 「赤い船」
・・・すると、そのうちに今度の戦争が押ッ始まったものだから、もう露西亜も糞もあったものじゃねえ、日本の猟船はドシドシコマンドルスキー辺へもやって来るという始末で、島から救い出されると、俺はすぐその船で今日まで稼いで来たんだが……考えて見りゃ運がよ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・なお校長の驥尾に附して、日本橋五丁目の裏長屋に住む浄瑠璃本写本師、毛利金助に稽古本を註文したりなどした。 お君は金助のひとり娘だった。金助は朝起きぬけから夜おそくまで背中をまるめてこつこつと浄瑠璃の文句を写しているだけが能の、古ぼけ・・・ 織田作之助 「雨」
出典:青空文庫