・・・煙は、早春の午後をわずかにくゆらせながら、明い静かさの中に、うす青く消えてしまう。「こう云うのどかな日を送る事があろうとは、お互に思いがけなかった事ですからな。」「さようでございます。手前も二度と、春に逢おうなどとは、夢にも存じませ・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・ 下 日清両国の間の和が媾ぜられてから、一年ばかりたった、ある早春の午前である。北京にある日本公使館内の一室では、公使館附武官の木村陸軍少佐と、折から官命で内地から視察に来た農商務省技師の山川理学士とが、一つテ・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・ まだ、寒い、早春の黄昏方でありました。往来の上では、子供らが、鬼ごっこをして遊んでいました。三人の子供らは、いつしか飴チョコを箱から出して食べたり、そばを離れずについている、白犬のポチに投げてやったりしていました。その中に、まった・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・ 三 ある日、空は早春を告げ知らせるような大雪を降らした。 朝、寝床のなかで行一は雪解の滴がトタン屋根を忙しくたたくのを聞いた。 窓の戸を繰ると、あらたかな日の光が部屋一杯に射し込んだ。まぶしい世界だ。厚く雪・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・ 冬から早春にかけて、人は一度ならずそんな蠅を見たにちがいない。それが冬の蠅である。私はいま、この冬私の部屋に棲んでいた彼らから一篇の小説を書こうとしている。 1 冬が来て私は日光浴をやりはじめた。溪間の温泉宿な・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・これは、かの新人競作、幻燈のまちの、なでしこ、はまゆう、椿、などの、ちょいと、ちょいとの手招きと変らぬ早春コント集の一篇たるべき運命の不文、知りつつも濁酒三合を得たくて、ペン百貫の杖よりも重き思い、しのびつつ、ようやく六枚、あきらかにこれ、・・・ 太宰治 「あさましきもの」
・・・ あやまった人を愛撫した妻と、妻をそのような行為にまで追いやるほど、それほど日常の生活を荒廃させてしまった夫と、お互い身の結末を死ぬことに依ってつけようと思った。早春の一日である。そのつきの生活費が十四、五円あった。それを、そっくり携帯・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・三つ、四つと紹介をしているうちに、読者にも、黄村先生の人格の全貌 黄村先生が、山椒魚なんて変なものに凝りはじめた事に就いては、私にも多少の責在りとせざるを得ない。早春の或る日、黄村先生はれいのハンチング(ばかに派手な格子縞そのハンチング・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・ 早春の夜の事でありました。やはり一組の酔っぱらい客があり、どうせまた徹夜になるのでしょうから、いまのうちに私たちだけ大いそぎで、ちょっと腹ごしらえをして置きましょう、と私から奥さまにおすすめして、私たち二人台所で立ったまま、代用食の蒸・・・ 太宰治 「饗応夫人」
変心 文壇の、或る老大家が亡くなって、その告別式の終り頃から、雨が降りはじめた。早春の雨である。 その帰り、二人の男が相合傘で歩いている。いずれも、その逝去した老大家には、お義理一ぺん、話題は、女に就いての、極めて不きんし・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
出典:青空文庫