・・・佐伯五一郎の友人として、きょうは佐伯が病気ゆえ、代りに僕が参りましたと挨拶して、「早春の北海道」というその愚にもつかぬ映画を面白おかしく説明しなければならなくなった。 私には、もとより制服も制帽も無い。佐伯にも無い。きのう迄は、あったん・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・たしか早春の夜と記憶するが、私が古谷君の宅へ遊びに行ったら古谷君は、「君、酒を飲むんだろう?」 と、さげすむような口調で言ったので、私も、むっとした。なにも私のほうだけが、いつもごちそうのなりっ放しになっているわけではない。「そ・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・ ことし、私は二人の友人と別れた。早春に三井君が死んだ。それから五月に三田君が、北方の孤島で玉砕した。三井君も、三田君も、まだ二十六、七歳くらいであった筈である。 三井君は、小説を書いていた。一つ書き上げる度毎に、それを持って、勢い・・・ 太宰治 「散華」
・・・ おかみの自殺から、ひと月くらい経って、早春の或る宵に、笠井氏は、あの夜以来はじめて、トヨ公の屋台に、れいの如く泥酔してあらわれました。「僕は、先月、ここの店の勘定を払ったか、どうか、……」 あまり元気の無い口調でした。「お・・・ 太宰治 「女類」
・・・ 早春のころに、私はここで、しばらく仕事をしていたことがある。雨の降る日に、傘もささずに銭湯へ出かけた。銭湯は、すぐ近いのである。途中、雨合羽着た郵便屋さんと、ふと顔を見合せ、「あ、ちょいと。」郵便屋が、小声で私を呼びとめたのである・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・ふと他のこと考えて、六十秒もかからなかった筈なれども、放心の夢さめてはっと原稿用紙に立ちかえり書きつづけようとしてはたと停とん、安というこの一字、いったい何を書こうとしていたのか、三つになったばかりの早春死んだ女児の、みめ麗わしく心もやさし・・・ 太宰治 「創生記」
・・・ことしの早春に、私はこの甘酒屋で異様な男を見た。その日は土曜日で、朝からよく晴れていた。私はフランス叙情詩の講義を聞きおえて、真昼頃、梅は咲いたか桜はまだかいな。たったいま教ったばかりのフランスの叙情詩とは打って変ったかかる無学な文句に、勝・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・ 早春のこと。夕食の少しまえに、私はすぐ近くの四十九聯隊の練兵場へ散歩に出て、二、三の犬が私のあとについてきて、いまにも踵をがぶりとやられはせぬかと生きた気もせず、けれども毎度のことであり、観念して無心平生を装い、ぱっと脱兎のごとく逃げ・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・「早春」という映画は近ごろ評判にのぼったものの一つであったらしい。女の画家や、作家がそのつよい印象を語っていられる文章をどこかの広告でも読んだ。母ジェニファーの新しい愛人、そして良人として現われたコルベット卿をやっている俳優が、英国風の・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・一八八三年三月十四日――イエニーの死後三年目の早春に、人類の炬火のかかげ手カール・マルクスはメートランド・パークの家の書斎の肘掛椅子にかけて、六十五年の豊富極まりない一生を閉じた。〔一九四七年一月〕・・・ 宮本百合子 「カール・マルクスとその夫人」
出典:青空文庫