・・・客は註文のフライが来ると、正宗の罎を取り上げた。そうして猪口へつごうとした。その時誰か横合いから、「幸さん」とはっきり呼んだものがあった。客は明らかにびっくりした。しかもその驚いた顔は、声の主を見たと思うと、たちまち当惑の色に変り出した。「・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・然るに半三郎の馬の脚は徳勝門外の馬市の斃馬についていた脚であり、そのまた斃馬は明らかに張家口、錦州を通って来た蒙古産の庫倫馬である。すると彼の馬の脚の蒙古の空気を感ずるが早いか、たちまち躍ったり跳ねたりし出したのはむしろ当然ではないであろう・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・年の老いつつあるのが明らかに思い知られた。彼はさきほどから長い間ぼんやりとそのさまを眺めていたのだ。「もう着くぞ」 父はすぐそばでこう言った。銀行から歳暮によこす皮表紙の懐中手帳に、細手の鉛筆に舌の先の湿りをくれては、丹念に何か書き・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ かくて魚住氏のいわゆる共通の怨敵が実際において存在しないことは明らかになった。むろんそれは、かの敵が敵たる性質をもっていないということでない。我々がそれを敵にしていないということである。そうしてこの結合は、むしろそういう外部的原因から・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・その眉顰み、唇ふるいて、苦痛を忍び瞼を閉じしが、十分時過ぎつと思うに、ふとまた明らかにみひらけり。「肯きませんか。あなた、私を何と思います。」 と切なる声に怒を帯びたる、りりしき眼の色恐しく、射竦めらるる思あり。 枕に沈める横顔・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・が、不自由しなかったという条、折には眼が翳んだり曇ったりして不安に脅かされていたのは『八犬伝』巻後の『回外剰筆』を見ても明らかである。曰く、「(戊戌夏に至りては愈々その異なるを覚えしかども尚悟らず、こは眼鏡の曇りたる故ならめと謬り思ひて、俗・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・あんなに仲よくしていたのに、ひょっとしたら嫌われたのではないかと心配して、やがて十日も顔を見ないと、もう明らかに豹一を好いてる気持を否定しかねた。だから、二週間ほど経って、ふと彼の姿を見つけると、ほッとしてずいぶんいそいそした。しかるに豹一・・・ 織田作之助 「雨」
・・・そのプツプツした空気、野獣のような匂い、大気へというよりも海へ射し込んで来るような明らかな光線――ああ今僕はとうてい落ちついてそれらのことを語ることができない。何故といって、そのヴィジョンはいつも僕を悩ましながら、ごく稀なまったく思いもつか・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・口でこそそれとは言わんが、明らかにおれを凌辱した。おのれ見ろ。見事おれの手だまに取って、こん粉微塵に打ち砕いてくれるぞ。見込んだものを人に取らして、指をくわえているおれではない。狙らった上は決して免がさぬ。光代との関係は確かに見た。わが物顔・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・『もっともはなはだしい』という意味は無論彼らの情事に関することは言わないでも明らかである。 さア初めろと自分の急き立つるので、そろそろ読み上げる事になった。自分がそばで聴くとは思いがけない事ゆえ、大いに恐縮している者もある。それもそのは・・・ 国木田独歩 「遺言」
出典:青空文庫