・・・万里の好山に雲忽ちに起り、一楼の明月に雨始めて晴れたり……」 と謡うのが、遠いが手に取るように聞えた。――船大工が謡を唄う――ちょっと余所にはない気色だ。……あまつさえ、地震の都から、とぼんとして落ちて来たものの目には、まるで別なる・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・二葉亭は忽ち底力のある声で「明月や……」と叫って、較や暫らく考えた後、「……跡が出ない。が、爰で名句が浮んで来るようでは文人の縁が切れない。絶句する処が頼もしいので、この塩梅ではマダ実業家の脈がある、」と呵然として笑った。 汽車の時間を・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・夜のとばりがせめてもに、この醜さを隠しましょうと、色男気取った氏神詣りも、悪口祭の明月に、覗かれ照らされその挙句、星の数ほどあるアバタの穴を、さらけ出してしまったこの恥かしさ、穴あらばはいりもしたが、まさかアバタ穴にもはいれまい。したが隠れ・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
・・・「青天に有明月の朝ぼらけ」と付けたモンタージュと、放免状を突きつけられた囚人の画像の次に「春の雪解け川」を出した付け合わせと、情は別でも、手法においてどれだけの差別があるか。 映画でしばしば用いられる推移の手段としての接枝的連接法とも呼・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・な各場面から始まってうき人を枳殻籬よりくぐらせん 今や別れの刀さし出すせわしげに櫛で頭をかきちらし おもい切ったる死にぐるい見よの次に去来の傑作青天に有明月の朝ぼらけが来る。ここに・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・クリスマスの夜の空に明月を仰ぎ、雪の降る庭に紅梅の花を見、水仙の花の香をかぐ時には、何よりも先に宗達や光琳の筆致と色彩とを思起す。秋冬の交、深夜夢の中に疎雨斑々として窓を撲つ音を聞き、忽然目をさまして燈火の消えた部屋の中を見廻す時の心持は、・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・わたくしは夕焼の雲を見たり、明月を賞したり、あるいはまた黙想に沈みながら漫歩するには、これほど好い道は他にない事を知った。それ以来下町へ用足しに出た帰りには、きまって深川の町はずれから砂町の新道路を歩くのである。 歩きながら或日ふと思出・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・円く照る明月のあすをと問わば淋しからん。エレーンは死ぬより外の浮世に用なき人である。 今はこれまでの命と思い詰めたるとき、エレーンは父と兄とを枕辺に招きて「わがためにランスロットへの文かきて玉われ」という。父は筆と紙を取り出でて、死なん・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・それゆえ、鎌倉の明月の夜の景色を想うと空に高く冴え渡る月光に反し、黒く深く黙した山々の蹲りがありありと見えて来る。借りた茅屋根の小家は、明月谷にある。明月谷という名は、陳腐なようで、自然の感じを思いのほか含んでいる。家の縁側に立って南を見る・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・中頃の部分は、鎌倉の明月谷の夏。我々は胡瓜と豆腐ばかり食べて、夜になると仕事を始めた。彼女はそっちの部屋でチェホフを。私はこっちの部屋で自分の小説を。蛾が、深夜に向って開け放した我々の部屋から部屋へとんだ。最後の分は、駒沢の竹藪のある部屋で・・・ 宮本百合子 「シナーニ書店のベンチ」
出典:青空文庫