・・・ のどかな春日の縁側に猫が二匹並んですわっている。庭の木々のこずえには小鳥の影がちらちらする。二匹の猫があちらこちらに首を曲げたり耳を動かしたりするのが、まるで申し合わせたようにほとんど同時に同一の挙動をする。ちょうど時計じかけで拍子を・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・遊人嘔唖歌吹シ遅遅タル春日興ヲ追ヒ歓ヲ尽シテ、惟夕照ノ西ニ没シ鐘声ノ暮ヲ報ズルヲ恨ムノミ。」となしている。 桜花は上野の山内のみならず其の隣接する谷中の諸寺院をはじめ、根津権現の社地にも古来都人の眺賞した名木が多くある。斎藤月岑の東都歳・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ 川口屋の女主お直というは吉原の芸妓であったが、酒楼川口屋を開いて後天保七年に隅田堤に楓樹を植えて秋もなお春日桜花の時節の如くに遊客を誘おうと試みた。この事は風俗画報『新撰名所図会』に『好古叢誌』の記事を転載して説いているから茲に贅せな・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・お辞儀一つで事が済むなら訳のないことだと、僕は早速承知して主人と共にその自動車に乗り、道普請で凹凸の甚しい小石川の春日町から指ヶ谷町へ出て、薄暗い横町の阪上に立っている博文館へと馳付けた。稍しばらく控所で待たされてから、女給仕に案内せられて・・・ 永井荷風 「申訳」
私共が故郷の金沢から始めて東京に出た頃は、水道橋から砲兵工廠辺はまだ淋しい所であった。焼鳥の屋台店などがあって、人力車夫が客待をしていた。春日町辺の本郷側のがけの下には水田があって蛙が鳴いていた。本郷でも、大学の前から駒込・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・「ありゃ、あいづ川だぞ。」「春日明神さんの帯のようだな。」三郎が言いました。「何のようだど。」一郎がききました。「春日明神さんの帯のようだ。」「うな神さんの帯見だごとあるが。」「ぼく北海道で見たよ。」 みんなはな・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・〔欄外に〕○皇太子の生れてよろこびの花電車春日町のところで会った。こちら自動車。ダーやられたとき あの感じを思い出した。 遭遇の場面○新響のかえり。銀座。男二人女一人 アラ! ああやっと見つけ・・・ 宮本百合子 「情景(秋)」
・・・ 桜時分だから東大寺の、銭を払っては一撞きつかせる焚鐘が殆ど一日じゅう鳴りづめだ。春日神社の囲りなど夥しい神鹿の姿も雑踏にまぎれるばかりの人出であった。が、妙なもので、素通りの見物人が通る大路はきっちり定っているものだ。その庭の白く乾いた道・・・ 宮本百合子 「宝に食われる」
・・・霞み立つ赤土に切りたほされし杉の木の 静かにふして淡く打ち笑む白々と小石のみなる河床に 菜の花咲きて春の日の舞ふ水車桜の小枝たわめつゝ ゆるくまはれり小春日の村白壁の山家に桃の影浮きて・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
・・・従妹がパンジーをいじっている座敷の縁側から畳三尺ほど春日はうららかに照っているが、庭の南側の端れには、八つ手の大きいのが一本、赤い実のついた青木が一本、生えているばかりである。 この界隈は、どちらかというと樹木の多い古い土地で、めいめい・・・ 宮本百合子 「昔を今に」
出典:青空文庫