・・・「ええ、ですから、ですから、おじさん、そのお慰めかたがた……今では時世がかわりました。供養のために、初路さんの手技を称め賛えようと、それで、「糸塚」という記念の碑を。」「…………」「もう、出来かかっているんです。図取は新聞にも出・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 汽車の上り下りには赤帽が世話をする、車中では給仕が世話をする、食堂車がある、寝台車がある、宿屋の手代は停車場に出迎えて居る、と言ったような時世になったのですから、今の中等人士は昔時の御大名同様に人の手から手へ渡って行って、ひどく大切に・・・ 幸田露伴 「旅行の今昔」
・・・ここで時世の色を点綴させるのだね。動物園の火事がいい。百匹にちかいお猿が檻の中で焼け死んだ。」「陰惨すぎる。やはり、明日の運勢の欄あたりを読むのが自然じゃないか。」「僕はお酒をやめて、ごはんにしよう、と言う。女とふたりで食事をする。・・・ 太宰治 「雌に就いて」
・・・思うにこの老幇間もわたくしと同じく、時世と風俗との変遷に対して、都会の人の誰もが抱いているような好奇心と哀愁とを、その胸中に秘していたのだろう。 暖簾外の女郎屋は表口の燈火を消しているので、妓夫の声も女の声も、歩み過る客の足音と共に途絶・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・何も彼も時世時節ならば是非もないというような川柳式のあきらめが、遺伝的に彼の精神を訓練さしていたからである。身過ぎ世過ぎならば洋服も着よう。生れ落ちてから畳の上に両足を折曲げて育った揉れた身体にも、当節の流行とあれば、直立した国の人たちの着・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・当時を顧ると、時世の好みは追々芸者を離れて演劇女優に移りかけていたので、わたくしは芸者の流行を明治年間の遺習と見なして、その生活風俗を描写して置こうと思ったのである。カッフェーの女給はその頃にはなお女ボーイとよばれ鳥料理屋の女中と同等に見ら・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・お石は其時世を越えて散々な目に逢って来たのである。幾度か相逢ううちにお石も太十の情に絆された。そうでなくとも稀に逢えば誰でも慇懃な語を交換する。お石に逢う度に其情は太十の腸に浸み透るのであった。瞽女は秋毎に村へ来た。そうしてお石は屹度其仲間・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・またどういう時世にはどんな職業が自然の進化の原則として出て来るものである。と一々明細に説明してやって、例えば東京市の地図が牛込区とか小石川区とか何区とかハッキリ分ってるように、職業の分化発展の意味も区域も盛衰も一目の下に暸然会得できるような・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・無口で、激情的で、うつりゆく時世を犇々と肌身にこたえさせつつギリギリのところまで鉄瓶を握りしめている心持が肯ける。久作という人物は、しかしあの舞台では本間教子の友代の、厚みと暖かさと活気にみちた自然な好技に、何とよく扶けられ、抱かれているこ・・・ 宮本百合子 「「建設の明暗」の印象」
・・・成し、新感覚派の時代から自然主義的、現実主義的文学方法に絶えざる反撥をつづけて来た横光利一、川端康成、佐藤春夫その他、市井談議一般に倦怠し、同時にリアリズムを更に高めゆく歴史的努力への根気をも失いつつ時世の荒さにもまれている多くの作家が、こ・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
出典:青空文庫