・・・いよいよ発車の時刻になって、車の輪が回りはじめたと思うきわどい瞬間をわざと見はからって、自分は隠袋の中から今朝読んだ手紙を出して、おいお土産をやろうと言いながら、できるだけ長く手を重吉の方に伸ばした。重吉がそれを受け取る時分には、汽車がもう・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・夕方招かれた時刻の少し前に、家を出て、坂を上り、ユンケル氏の宅へ行ったのである。然るにどうしたことか、ユンケル氏の宅から少し隔った、今は名を忘れたが、何でもエスで始まった名の女の宣教師の宅へ入ってしまった。その女宣教師も知った人であり、一、・・・ 西田幾多郎 「アブセンス・オブ・マインド」
・・・ その同じ時刻に、安岡が最期の息を吐き出す時に、旅行先で深谷が行方不明になった。 数日後、深谷の屍骸が渚に打ち上げられていた。その死体は、大理石のように半透明であった。 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ 十 午時過ぎて二三時、昨夜の垢を流浄て、今夜の玉と磨くべき湯の時刻にもなッた。 おのおの思い思いのめかし道具を持参して、早や流しには三五人の裸美人が陣取ッていた。 浮世風呂に浮世の垢を流し合うように、別世界・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・しかのみならず、この法外の輩が、たがいにその貧困を救助して仁恵を施し、その盗みたる銭物を分つに公平の義を主とし、その先輩の巨魁に仕えて礼をつくし、窃盗を働くに智術をきわめ、会同・離散の時刻に約を違えざる等、その局処についてこれをみれば、仁義・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
・・・嘉吉は朝いつもの時刻に眼をさましてから寝そべったまま煙草を二、三服ふかしてまたすうすう眠ってしまった。 この一年に二日しかない恐らくは太陽からも許されそうな休みの日を外では鳥が針のように啼き日光がしんしんと降った。嘉吉がもうひる近いから・・・ 宮沢賢治 「十六日」
去る十二月十九日午後一時半から二時の間に、品川に住む二十六歳の母親が、二つの男の子の手をひき、生れて一ヵ月たったばかりの赤ちゃんをおんぶして、山の手電車にのった。その時刻にもかかわらず、省線は猛烈にこんで全く身動きも出来ず・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
・・・台所にいた千場作兵衛、そのほか重手を負ったものは家来や傍輩が肩にかけて続いた。時刻はちょうど未の刻であった。 光尚はたびたび家中のおもだったものの家へ遊びに往くことがあったが、阿部一族を討ちにやった二十一日の日には、松野左京の屋敷へ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・彼は食事の時刻が来ると、黙って匙にスープを掬い、黙って妻の口の中へ流し込んだ。丁度、妻の腹の中に潜んでいる死に食物を与えるように。 あるとき、彼は低い声でそっと妻に訊ねてみた。「お前は、死ぬのが、ちょっとも怖くはないのかね。」「・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・そういわれてみると、蓮の花が日光のささない時刻に、すなわち暗くて人に見えずまた人の見ない時刻に、開くのであるということ、そのために常人の判断に迷うような伝説が生じたのであるということが、やっとわかって来た。もちろん、日光のほかに気温も関係し・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫