・・・ 陸軍主計の軍服を着た牧野は、邪慳に犬を足蹴にした。犬は彼が座敷へ通ると、白い背中の毛を逆立てながら、無性に吠え立て始めたのだった。「お前の犬好きにも呆れるぜ。」 晩酌の膳についてからも、牧野はまだ忌々しそうに、じろじろ犬を眺め・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 青年は老いた父の眼に、晩酌の酔を感じていた。「それは偉い軍人だがね、閣下はまた実に長者らしい、人懐こい性格も持っていられた。……」 少将はほとんど、感傷的に、将軍の逸話を話し出した。それは日露戦役後、少将が那須野の別荘に、将軍・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・ 三 死 これもその頃の話である。晩酌の膳に向った父は六兵衛の盞を手にしたまま、何かの拍子にこう云った。「とうとうお目出度なったそうだな、ほら、あの槙町の二弦琴の師匠も。……」 ランプの光は鮮かに黒塗りの膳の・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・ その晩父は、東京を発った時以来何処に忘れて来たかと思うような笑い顔を取りもどして晩酌を傾けた。そこに行くとあまり融通のきかない監督では物足らない風で、彼を対手に話を拡げて行こうとしたが、彼は父に対する胸いっぱいの反感で見向きもしたくな・・・ 有島武郎 「親子」
・・・佐藤の妻も晩酌に酔いしれていた。与十と鼎座になって三人は囲炉裡をかこんでまた飲みながら打解けた馬鹿話をした。仁右衛門が自分の小屋に着いた時には十一時を過ぎていた。妻は燃えかすれる囲炉裡火に背を向けて、綿のはみ出た蒲団を柏に着てぐっすり寝込ん・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・しかしいつごろからか禁酒同様になって、わずかに薬代わりの晩酌をするくらいに止まった。酒に酔った時の父は非常におもしろく、無邪気になって、まるで年寄った子供のようであった。その無邪気さかげんには誰でも噴き出さずにはいられなかった。 父の道・・・ 有島武郎 「私の父と母」
・・・例の晩酌の時と言うとはじまって、貴下が殊の外弱らせられたね。あれを一つ遣りやしょう。」 と片手で小膝をポンと敲き、「飲みながらが可い、召飯りながら聴聞をなさい。これえ、何を、お銚子を早く。」「唯、もう燗けてござりえす。」と女房が・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・親子四人の為めに僅かの給料で毎日々々こき使われ、帰って晩酌でも一杯思う時は、半分小児の守りや。養子の身はつらいものや、なア。月末の払いが不足する時などは、借金をするんも胸くそ悪し、いッそ子供を抱いたまま、湖水へでも沈んでしまおか思うことがあ・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・今、吉弥を紹介しておく方が、僕のいなくなった跡で、妻の便利でもあろうと思ったから、――また一つには、吉弥の跡の行動を監視させておくのに都合がよかろうと思ったから――吉弥の進まないのを無理に玉をつけて、晩酌の時に呼んだ。料理は井筒屋から取った・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・両親共に三味線が好きで、殊にお母さんは常磐津が上手で、若い時には晩酌の微酔にお母さんの絃でお父さんが一とくさり語るというような家庭だったそうだ。江戸の御家人にはこういう芸欲や道楽があって、大抵な無器用なものでも清元や常磐津の一とくさり位は唄・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
出典:青空文庫