・・・―― 夢の中の僕は暑苦しい町をSと一しょに歩いていた。砂利を敷いた歩道の幅はやっと一間か九尺しかなかった。それへまたどの家も同じようにカアキイ色の日除けを張り出していた。「君が死ぬとは思わなかった。」 Sは扇を使いながら、こう僕・・・ 芥川竜之介 「死後」
・・・ いちばん深刻だと思われた場面は、最大速度で回る電扇と、摂氏四十度を示した寒暖計を映出したあとで、ブランシュの酒場の中の死んだような暑苦しい空気がかなりリアルに映写される。女主人公が穴蔵へ引っ込んだあとへイルマが蠅取り紙を取り換えに来る・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・ こんな事を考えて暑い日の暑苦しい心持をさらに増したのであった。 それから四、五日経っての事である。私はZ町まで用があって日盛りの時刻に出掛けて行った。H町で乗った電車はほとんどがら明きのように空いていた。五十銭札を出して往復を二枚・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・蒸されるような暑苦しい谷間の坂道の空気の中へ、ちょうど味噌汁の中に入れた蓴菜のように、寒天の中に入れた小豆粒のように、冷たい空気の大小の粒が交じって、それが適当な速度でわれわれの皮膚を撫でて通るときにわれわれは正真正銘の涼しさを感じるらしい・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・若くてのんきで自由な頭脳を所有する学生諸君が暑苦しい研学の道程であまりに濃厚になったであろうと思われる血液を少しばかり薄めるための一杯のソーダ水として、あるいはまたアカデミックな精白米の滋味に食い飽きて一種のヴィタミン欠乏症にかかる恐れのあ・・・ 寺田寅彦 「量的と質的と統計的と」
・・・ いろいろなイズムも夏は暑苦しい。少なくも夏だけは「自由」の涼しさがほしいものである。「風流」は心の風通しのよい自由さを意味する言葉で、また心の涼しさを現わす言葉である。南画などの涼味もまたこの自由から生まれるであろう。 風鈴の音の・・・ 寺田寅彦 「涼味数題」
・・・道太の姉や従姉妹や姪や、そんな人たちが、次ぎ次ぎににK市から来て、山へ登ってきていたが、部屋が暑苦しいのと、事務所の人たちに迷惑をかけるのを恐れて、彼はK市で少しほっとしようと思って降りてきた。「何しろ七月はばかに忙しい月で、すっかり頭・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・もう暑苦しいといってよい頃であったが、それでも開け放された窓のカーテンが風を孕んで、涼しげにも見えた。久しぶりにて遇った人もあるらしい。一団の人々がここかしこに卓を囲んで何だか話し合っていた。やがて宴が始まってデザート・コースに入るや、停年・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・―― 暑苦しいために明けっ放した表から、誰かが呼んだ。 吉田はハッとした。 彼は、本能的に息を詰めた。そして耳を兎のようにおっ立てた。「どなた?」 おふくろが、喘ぐように云ったのと、吉田が、「しっ」と押し殺すような声・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・今の時候で見ると大変暑苦しいようであるがなかなか濃厚で面白い、但この作品で画家は極めて自然発生的に自身のもちものを出しているだけですが。今私はゴーリキイと知識人とのこと、又女のこと等面白い研究をかいています。 七月十六日 〔市ヶ谷刑・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
出典:青空文庫