・・・その中で変らないのは、午後の日が暖かに春を炙っている、狭い往来の土の色ばかりである。 その人の往来を、仕事場の中から、何と云う事もなく眺めていた、一人の青侍が、この時、ふと思いついたように、主の陶器師へ声をかけた。「不相変、観音様へ・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・あのどちらかと言えば、泥濁りのした大川のなま暖かい水に、限りないゆかしさを感じるのか。自分ながらも、少しく、その説明に苦しまずにはいられない。ただ、自分は、昔からあの水を見るごとに、なんとなく、涙を落したいような、言いがたい慰安と寂寥とを感・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・妻は吸い取られるように暖かそうな火の色に見惚れていた。二人は妙にわくわくした心持ちになった。 蹄鉄屋の先きは急に闇が濃かくなって大抵の家はもう戸じまりをしていた。荒物屋を兼ねた居酒屋らしい一軒から食物の香と男女のふざけ返った濁声がもれる・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
燕という鳥は所をさだめず飛びまわる鳥で、暖かい所を見つけておひっこしをいたします。今は日本が暖かいからおもてに出てごらんなさい。羽根がむらさきのような黒でお腹が白で、のどの所に赤い首巻きをしておとう様のおめしになる燕尾服の・・・ 有島武郎 「燕と王子」
この犬は名を附けて人に呼ばれたことはない。永い冬の間、何処にどうして居るか、何を食べて居るか、誰も知らぬ。暖かそうな小屋に近づけば、其処に飼われて居る犬が、これも同じように饑渇に困められては居ながら、その家の飼犬だというの・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・若旦那は、ありがたいか、暖かな、あの屋台か、五音が乱れ、もう、よいよい染みて呂律が廻らぬ。その癖、若い時から、酒は一滴もいけないのが、おでんで濃い茶に浮かれ出した。しょぼしょぼの若旦那。 さて、お妻が、流れも流れ、お落ちも落ちた、奥州青・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 気候は、と言うと、ほかほかが通り越した、これで赫と日が当ると、日中は早じりじりと来そうな頃が、近山曇りに薄りと雲が懸って、真綿を日光に干すような、ふっくりと軽い暖かさ。午頃の蔭もささぬ柳の葉に、ふわふわと柔い風が懸る。……その柳の下を・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・はいって見れば臭味もそれほどでなく、ちょうど頃合の温かさで、しばらくつかっているとうっとりして頭が空になる。おとよさんの事もちょっと忘れる。雨が少し強くなってきたのか、椎の葉に雨の音が聞こえてしずくの落つるが闇に響いて寂しい。座敷の方の話し・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 二郎は、こうして街道を歩いてゆく知らぬ人を見るのが好きでした。 さまざまなことを空想したり、考えたりしていると、独りでいてもそんなにさびしいとは思わなかったからです。 暖かな風が、どこからともなく吹いてくると、乾いた白い往来の・・・ 小川未明 「赤い船のお客」
・・・すみれは、おりおり寒い風に吹かれて、小さな体が凍えるようでありましたが、一日一日と、それでも雲の色が、だんだん明るくなって、その雲間からもれる日の光が野の上を暖かそうに照らすのを見ますと、うれしい気持ちがしました。 すみれは、毎朝、太陽・・・ 小川未明 「いろいろな花」
出典:青空文庫