・・・私に課せられている暗鬱な周囲のなかで、やがてそれは幻聴のように鳴りはじめた。束の間の閃光が私の生命を輝かす。そのたび私はあっあっと思った。それは、しかし、無限の生命に眩惑されるためではなかった。私は深い絶望をまのあたりに見なければならなかっ・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・ごっとん、ごっとん、のろすぎる電車にゆられながら、暗鬱でもない、荒涼でもない、孤独の極でもない、智慧の果でもない、狂乱でもない、阿呆感でもない、号泣でもない、悶悶でもない、厳粛でもない、恐怖でもない、刑罰でもない、憤怒でもない、諦観でもない・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・ 刻一刻、気持が暗鬱になった。みんないい人なのだ。誰も、わるい人はいないのだ。私ひとりが過去に於いて、ぶていさいな事を行い、いまもなお十分に聡明ではなく、悪評高く、その日暮しの貧乏な文士であるという事実のために、すべてがこのように気まず・・・ 太宰治 「故郷」
・・・蟹田から青森まで、小さい蒸気船の屋根の上に、みすぼらしい服装で仰向に寝ころがり、小雨が降って来て濡れてもじっとしていて、蟹田の土産の蟹の脚をポリポリかじりながら、暗鬱な低い空を見上げていた時の、淋しさなどは忘れ難い。結局、私がこの旅行で見つ・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・ 陸軍工兵一等卒、原田重吉は出征した。暗鬱な北国地方の、貧しい農家に生れて、教育もなく、奴隷のような環境に育った男は、軍隊において、彼の最大の名誉と自尊心とを培養された。軍律を厳守することでも、新兵を苛めることでも、田舎に帰って威張るこ・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・そのシャンデリアの重く光る切子硝子の房の間へ、婚礼の白いヴェイルを裾長くひいた女の後姿が朦朧と消えこむのを、その天井の下の寝台で凝っと暗鬱な眼差しをこらして見つめている女がある。順をおいてみて行ったら、それが母の再婚に苦しむ娘イレーネの顔で・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・それにも拘らず、その峰から峰へと絶えない起伏の重なりのせいか、或は歴史的の連想によってか、鎌倉の山は一種暗鬱なところがある。昔風な径路のついた山裾を歩いても、岩の間の切通しを見ても何か捕えがたい憂鬱めいたものが心に来る。それゆえ、鎌倉の明月・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・によって先頭をきられた一系列の作家の作品の出現によって愈々暗鬱なものとなった。転向文学という一時的な概括で云われたこれらの作品の特徴は、知識人としての作者たちが時代の中に経た生活と思想経験の歴史的な価値と意味とを我から抹殺して、一つの理想に・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・初期の暗鬱な涙の中にユーモアをもった短篇から「ふてぶてしく」「大手を振って生きよう」という今日の信念に到達した道には、石坂洋次郎として進展の足どりを認めることができるであろう。然しながら、すべての批評家が指摘している誇張癖とともに、作品のう・・・ 宮本百合子 「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」
出典:青空文庫