・・・其儘で暫く経つ。竈馬の啼く音、蜂の唸声の外には何も聞えん。少焉あって、一しきり藻掻いて、体の下になった右手をやッと脱して、両の腕で体を支えながら起上ろうとしてみたが、何がさて鑽で揉むような痛みが膝から胸、頭へと貫くように衝上げて来て、俺はま・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 弟達が来ますと、二人に両方の手を握らせて、暫くは如何にも安心したかの様子でしたが、末弟は試験の結果が気になって落ちつかず、次弟は商用が忙しくて何れも程なく帰ってしまいました。 二十日の暮れて間もない時分、カツカツとあわただしい下駄・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・聞き終って暫くは一言も発し得なかった。成程悲惨なる境遇に陥った人であるとツク/″\気の毒に思ったのである。けれども止むなくんばと、「断然離婚なさったら如何です。」「それは新らしき事実を作るばかりです。既に在る事実は其為めに消えません・・・ 国木田独歩 「運命論者」
一 牝豚は、紅く爛れた腹を汚れた床板の上に引きずりながら息苦しそうにのろのろ歩いていた。暫く歩き、餌を食うとさも疲れたように、麦藁を短く切った敷藁の上に行って横たわった。腹はぶってりふくれている。時々、その・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・切詰めた予算だけしか有しておらぬことであるから、当人は人一倍困悶したが、どうも病気には勝てぬことであるから、暫く学事を抛擲して心身の保養に力めるが宜いとの勧告に従って、そこで山水清閑の地に活気の充ちた天地の気を吸うべく東京の塵埃を背後にした・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・という顔付をして、暫く彼女を眺めたままで立っていた。 お島は急いで張物板を片附け、冠っていた手拭を取って、六年ばかりも逢えなかった旧の友達を迎えた。「まあ、岡本さん――」 とその友達は、お島がまだ娘でいた頃の姓を可懐しそうに呼ん・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ 老人はそこの家の前に暫く立っていて、また戸口と窓とを眺めた。そのうちに老人の日に焼けた顔が忽ち火のように赤くなった。その赤い色は、上着の襟の開いている処に見えている、胸のあたりから顔へ上がって行ったのである。それと同時に胸に一ぱい息を・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・散歩の人たちは、蜘蛛の子を散らすように、ぱあっと飛び散り、どこへどう消え失せたのか、お化けみたい、たったいままで、あんなにたくさん人がいたのに、須臾にして、巷は閑散、新宿の舗道には、雨あしだけが白くしぶいて居りました。博士は、花屋さんの軒下・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・一同暫くは茫然としていた。笑談だろうか。この貴族先生の顔色を見るに、そうは受け取れない。世界を一周する。誰一人それを望まないものはない。しかしどんな条件があるのだろうと、誰も猶予する。「僕がしましょう。」興奮の余りに、上わ調子になった声・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・の畑でない処には、蚕豆、さや豌豆、午蒡の樹になったものに、丸い棘のある実が生って居るのを、前に歩いて行った友に、人知れず採って打付けて遣ったり何かすると、友は振返って、それと知って、負けぬ気になって、暫く互に打付けこをするのも一興である。路・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
出典:青空文庫