・・・内地へ帰って暮らすことにしよう。」 五分、十分、二十分、――時はこう言う二人の上に遅い歩みを運んで行った。常子は「順天時報」の記者にこの時の彼女の心もちはちょうど鎖に繋がれた囚人のようだったと話している。が、かれこれ三十分の後、畢に鎖の・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・それは転地とは云うものの、大抵は病院に暮らすものだった。僕は学校の冬休みを利用し、はるばる彼を尋ねて行った。彼の病室は日当りの悪い、透き間風の通る二階だった。彼はベッドに腰かけたまま、不相変元気に笑いなどした。が、文芸や社会科学のことはほと・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・ひょっとすると生涯こうして考えているばかりで暮らすのかもしれないんですが、とにかく嘘をしなければ生きて行けないような世の中が無我無性にいやなんです。ちょっと待ってください。も少し言わせてください。……嘘をするのは世の中ばかりじゃもちろんあり・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 一日働き暮すとさすが労働に慣れ切った農民たちも、眼の廻るようなこの期節の忙しさに疲れ果てて、夕飯もそこそこに寝込んでしまったが、仁右衛門ばかりは日が入っても手が痒くてしようがなかった。彼れは星の光をたよりに野獣のように畑の中で働き・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・苫家、伏家に灯の影も漏れない夜はさこそ、朝々の煙も細くかの柳を手向けられた墓のごとき屋根の下には、子なき親、夫なき妻、乳のない嬰児、盲目の媼、継母、寄合身上で女ばかりで暮すなど、哀に果敢ない老若男女が、見る夢も覚めた思いも、大方この日が照る・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・一日とて安心して日を暮らす日はありませんもの。こんなに不安心にやせるような思いでいるならば、いっそひとりになったほうがと思いますの。東京では女ひとりの所帯はたいへん気安いとかいいますから……」 予は突然打ち消して、「とんでもないこと・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・またよしあそこを出たにしろ、別に面白く暮す工夫がつけば、仕合せは同じでありませんか。それでもあの家にいさえすればわたしの仕合せ、おッ母さんもそれで安心だと思うなら考えなおしてみてもえいけれど、もうこうなっちゃっては仕方がなかありませんか」・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 緑雨が一日私の下宿で暮す時は下宿の不味いお膳を平気で喰べていた。シカモ鰍の味噌煮というような下宿屋料理を小言云い云い奇麗に平らげた。が、率ざ何処かへ何か食べに行こうとなるとなかなか厳ましい事をいった。三日に揚げずに来るのに毎次でも下宿・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ 子供から別れて、独りさびしく海の中に暮らすということは、この上もない悲しいことだけれど、子供が何処にいても、仕合せに暮らしてくれたなら、私の喜びは、それにましたことはない。 人間は、この世界の中で一番やさしいものだと聞いている。そ・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
・・・…… 子供から別れて、独り、さびしく海の中に暮らすということは、このうえもない悲しいことだけれど、子供がどこにいても、しあわせに暮らしてくれたなら、私の喜びは、それにましたことはない。 人間は、この世界の中で、いちばんやさしいものだ・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
出典:青空文庫