・・・一夜の暴風雪に家々の軒のまったく塞った様も見た。広く寒い港内にはどこからともなく流氷が集ってきて、何日も何日も、船も動かず波も立たぬ日があった。私は生れて初めて酒を飲んだ。 ついに、あの生活の根調のあからさまに露出した北方植民地の人情は・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ 渠は手も足も肉落ちて、赭黒き皮のみぞ骸骨を裹みたるたる空に覆れたる万象はことごとく愁いを含みて、海辺の砂山に著るき一点の紅は、早くも掲げられたる暴風警戒の球標なり。さればや一艘の伝馬も来らざりければ、五分間も泊らで、船は急進直江津に向・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・昔から何ほど暴風が吹いても、この椎森のために、僕の家ばかりは屋根を剥がれたことはただの一度もないとの話だ。家なども随分と古い、柱が残らず椎の木だ。それがまた煤やら垢やらで何の木か見別けがつかぬ位、奥の間の最も煙に遠いとこでも、天井板がまるで・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・そのつばめは、こうして、旅をしているうちに、一夜、ひじょうな暴風に出あいました。驚いて、木の葉をしっかりとくわえて暗い空に舞い上がり、死にもの狂いで夜の間を暴風と戦いながらかけりました。 夜が明けると、はるか目の下の波間に、赤い船が、暴・・・ 小川未明 「赤い船とつばめ」
・・・この辺りには近来なかったような暴風が吹き、波が荒れ狂ったのであります。そしてその暗い、すさまじい夜が明け放れたときには、二人の姿は、もはやその岬の上には見えなかったのであります。町の人々はその日もその翌日も、かの乞食二人の姿を見なかったので・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
・・・両方の羽は、暴風にあったとみえて疲れていました。「どうなさったのですか?」と、とこなつの花は、びっくりしてたずねました。「もういわんでください。昨夜の暴風で、花という花は、すっかりしぼんでしまい、私たちはみんな死んだり傷ついたりしま・・・ 小川未明 「小さな赤い花」
・・・ いままで、傍若無人に吹いていた暴風は、こう海豹に問いかけられると、ちょっとその叫びをとめました。「海豹さん、あなたはいなくなった子供のことを思って、毎日そこに、そうしてうずくまっていなさるのですか。私は、なんのためにいつまでも、あ・・・ 小川未明 「月と海豹」
・・・Fの涙は、いつの場合でも私には火の鞭であり、苛責の暴風であった。私の今日の惨めな生活、瘠我慢、生の執着――それが彼の一滴の涙によって、たとえ一瞬間であろうと、私の存在が根柢から覆えされる絶望と自棄を感じないわけに行かなかった。この哀れな父を・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・憂えも怒りも心の戦いもやみて、暴風一過、かれが胸には一片の秋雲凝って動かず。床にありていずこともなく凝視めし眼よりは冷ややかなる涙、両の頬をつたいて落ちぬ。『ああ恋しき治子よ』と叫びて跳ね起きたり。水車場の翁はほぼかれが上を知れるなり。・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・雨にぬれた弁天島という島や、黒みかゝった海や、去年の暴風にこわれた波止場や、そこに一艘つないである和船や、発動機船会社の貯油倉庫を私は、窓からいつまでもあきずに眺めたりする。波止場近くの草ッ原の雑草は、一カ月見ないうちに、病人の顎ひげのよう・・・ 黒島伝治 「海賊と遍路」
出典:青空文庫