・・・火影の多い町の書割がある。その中に二銭の団洲と呼ばれた、和光の不破伴左衛門が、編笠を片手に見得をしている。少年は舞台に見入ったまま、ほとんど息さえもつこうとしない。彼にもそんな時代があった。……「余興やめ! 幕を引かんか? 幕! 幕!」・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・や、田舎芝居の書割を思い出させる「一力」や、これらの絵からあらを捜せばいくらもあるだろうし、徒らに皮相の奇を求めるとけなす人はあるだろうが、しかし何と云ってもどこか吾人の胸の奥に隠れたある物、ある根強い要求に共鳴をさせるところがありはしまい・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・ 当時遊里の周囲は、浅草公園に向う南側千束町三丁目を除いて、その他の三方にはむかしのままの水田や竹藪や古池などが残っていたので、わたくしは二番目狂言の舞台で見馴れた書割、または「はや悲し吉原いでゝ麦ばたけ。」とか、「吉原へ矢先そろへて案・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 明治三十年の春明治座で、先代の左団次が鋳掛松を演じた時、鋳掛屋の呼び歩く声を真似するのが至難であったので、まことの鋳掛屋を招いて書割の後から呼ばせたとか云う話を聞いたことがあった。 わが呱々の声を揚げた礫川の僻地は、わたくしの身に・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・ 巴里輸入の絵葉書に見るが如き書割裏の情事の、果してわが身辺に起り得たか否かは、これまたここに語る必要があるまい。わたしの敢えて語らんと欲するのは、帝国劇場の女優を中介にして、わたしは聊現代の空気に触れようと冀ったことである。久しく薗八・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・照りつけられて、見渡す人家、堀割、石垣、凡ての物の側面は、その角度を鋭く鮮明にしてはいたが、しかし日本の空気の是非なさは遠近を区別すべき些少の濃淡をもつけないので、堀割の眺望はさながら旧式の芝居の平い書割としか思われない。それが今、自分の眼・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・けれども、それらの錦絵も芝居の書割も決して完全にこの珍らしい貴重なる東洋固有の風景を写しているとは思えない。 寒月の隈なく照り輝いた風のない静な晩、その蒼白い光と澄み渡る深い空の色とが、何というわけなく、われらの国土にノスタルジックな南・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・間に合わせをやったとしても、相当美しく、情緒を湛えてラネフスカヤがそこに再び母を見、自分の青春を見、涙さえこぼす桜の園が、窓からどんなに見えているかといえば、得たいの分らない、ただの茶色っぽい花模様の書割だとしたら――。築地小劇場ではどんな・・・ 宮本百合子 「シナーニ書店のベンチ」
・・・ 夜に成ると、山門と、静かな鐘楼の間から松の葉越しに、まるで芝居の書割のように大きな銀色の月が見える吉祥寺が、大通の真前にあった。 俥が漸々入る露路のとっつきにある彼女等の格子戸は、前に可愛い二本の槇を植えて、些か風情を添えて居るも・・・ 宮本百合子 「われらの家」
出典:青空文庫