・・・ 間もなく貞二が運ぶ酒肴整いければ、われまず二郎がために杯を挙げてその健康を祝し、二郎次にわがために杯を挙げかくて二人ひとしく高く杯を月光にかざしてわが倶楽部の万歳を祝しぬ。 二郎はげに泣かざるなり、貴嬢が上を語りいで、こし方の事に・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・澱んで流るる辺りは鏡のごとく、瀬をなして流るるところは月光砕けてぎらぎら輝っている。豊吉は夢心地になってしきりに流れを下った。 河舟の小さなのが岸に繋いであった。豊吉はこれに飛び乗るや、纜を解いて、棹を立てた。昔の河遊びの手練がまだのこ・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・南は山影暗くさかしまに映り、北と東の平野は月光蒼茫としていずれか陸、いずれか水のけじめさえつかず、小舟は西のほうをさして進むのである。 西は入り江の口、水狭くして深く、陸迫りて高く、ここを港にいかりをおろす船は数こそ少ないが形は大きく大・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・松郡山の間にては幾度か憩いけるに、初めは路の傍の草あるところに腰を休めなどせしも、次には路央に蝙蝠傘を投じてその上に腰を休むるようになり、ついには大の字をなして天を仰ぎつつ地上に身を横たえ、額を照らす月光に浴して、他年のたれ死をする時あらば・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・ 近寄って、月光に照されたかず枝を見ると、もはや、人の姿ではなかった。髪は、ほどけて、しかもその髪には、杉の朽葉が一ぱいついて、獅子の精の髪のように、山姥の髪のように、荒く大きく乱れていた。 しっかりしなければ、おれだけでも、しっか・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・ 夏の月が、その夜は満月でしたが、その月光が雨戸の破れ目から細い銀線になって四、五本、蚊帳の中にさし込んで来て、夫の痩せたはだかの胸に当っていました。「でも、お痩せになりましたわ。」 私も、笑って、冗談めかしてそう言って、床の上・・・ 太宰治 「おさん」
・・・ そう言いながら左手をたかく月光にかざし、自分のてのひらのその太陽線とかいう手筋をほれぼれと眺めたのである。 運勢なんて、ひらけるものか。それきりもう僕は青扇と逢っていない。気が狂おうが、自殺しようが、それはあいつの勝手だと思っ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・十三夜ぐらいかと思う月光の下に、黙って音も立てず、フワリフワリと空中に浮いてでもいるように。四月四日 日曜で早朝楽隊が賛美歌を奏する。なんとなく気持ちがいい。十時に食堂でゴッテスディーンストがある。同じ事でも西洋の事は西洋人がやって・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・あるいは蚊帳の中の青ずんだ光が、森の月光に獲物をもとめて歩いた遠い祖先の本能を呼びさますのではあるまいか。もし色の違ったいろいろの蚊帳があったら試験してみたいような気もした。 じゃれる品物の中でおもしろいのは帯地を巻いておく桐の棒である・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・ちょうど運動場のようで、もっと広い草原の中をおぼろな月光を浴びて現ともなくさまようていた。淡い夜霧が草の葉末におりて四方は薄絹に包まれたようである。どこともなく草花のような香がするが何のにおいとも知れぬ。足もとから四方にかけ・・・ 寺田寅彦 「花物語」
出典:青空文庫