・・・生垣を一つ大廻りに廻ると、路幅の狭い往来へ出る、――そこに彼よりも大きな子供が弟らしい二人と一しょに、空気銃を片手に下げたなり、何の木か木の芽の煙った梢を残惜しそうに見上げていた。―― その時また彼の耳には、誰かの梯子を上って来る音がみ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・たね子はこう云う夜の中に何か木の芽の匂うのを感じ、いつかしみじみと彼女の生まれた田舎のことを思い出していた。五十円の債券を二三枚買って「これでも不動産が殖えたのだからね」などと得意になっていた母親のことも。…… 次の日の朝、妙に元気のな・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・日の暮には、まだ間があるので、光とも影ともつかない明るさが、往来に漂っている。木の芽を誘うには早すぎるが、空気は、湿気を含んで、どことなく暖い。二三ヶ所で問うて、漸く、見つけた家は、人通りの少ない横町にあった。が、想像したほど、閑静な住居で・・・ 芥川竜之介 「野呂松人形」
・・・裏庭の外には小路の向うに、木の芽の煙った雑木林があった。良平はそちらへ駈けて行こうとした。すると金三は「こっちだよう」と一生懸命に喚きながら、畑のある右手へ走って行った。良平は一足踏み出したなり、大仰にぐるりと頭を廻すと、前こごみにばたばた・・・ 芥川竜之介 「百合」
・・・――唯今の鯖江、鯖波、今庄の駅が、例の音に聞えた、中の河内、木の芽峠、湯の尾峠を、前後左右に、高く深く貫くのでありまして、汽車は雲の上を馳ります。 間の宿で、世事の用はいささかもなかったのでありますが、可懐の余り、途中で武生へ立寄りまし・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
一 小さな芽 小さな木の芽が土を破って、やっと二、三寸ばかりの丈に伸びました。木の芽は、はじめて広い野原を見渡しました。大空を飛ぶ雲の影をながめました。そして、小鳥の鳴き声を聞いたのであります。(ああ、これが世の中と考えました。・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・まさかオンバコやスギ菜を取って食わせる訳にもゆかず、せめてスカンポか茅花でも無いかと思っても見当らず、茗荷ぐらいは有りそうなものと思ってもそれも無し、山椒でも有ったら木の芽だけでもよいがと、苦みながら四方を見廻しても何も無かった。八重桜が時・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・赤い封蝋細工のほおの木の芽が、風に吹かれてピッカリピッカリと光り、林の中の雪には藍色の木の影がいちめん網になって落ちて日光のあたる所には銀の百合が咲いたように見えました。 すると子狐紺三郎が云いました。「鹿の子もよびましょうか。鹿の・・・ 宮沢賢治 「雪渡り」
・・・一つ処に落付かずああ 木の芽。 陽の光。苦しい迄に 胸はふくれて来る。 *心が響に満ち 音律に顫えて来ると詩の作法は知らぬ自分も、うたをうたいたく思う。何と表したらよいか 此の心持どう云うのだ・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・春の麗らかな日、眼を放てば、私共は先ず、一々に異う木の芽の姿、一々に違う家々の眺めに、興味深く心を牽かれずにはいられないのである。 けれども、今私は、葉脈の太くなり落葉し始めた同じ桐の梢を仰ぎ、何を第一に感じるだろう。 空気だ。遮ぎ・・・ 宮本百合子 「透き徹る秋」
出典:青空文庫