・・・その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持って、その死骸の一つの顔を覗きこむように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸であろう。 下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸をするのさえ忘れていた。旧記の記者・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・夢がどうした、そんな事は木片でもない。――俺が汝等の手で面へ溝泥を塗られたのは夢じゃないぞ。この赫と開けた大きな目を見ろい。――よくも汝、溝泥を塗りおったな。――聞えるか、聞えるか。となりの野郎には聞えまいが、このくらいな大声だ。われが耳は・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・内部には、床も棚も、腰掛けも、木片一ツもなかった。たゞ、比較的新しいアンペラの切れと、焚き火のあとがあった。恐らく、誰れかの掠奪にでもあったのだろう。「おや、おや、まだ、あしこに、もう一軒、家があるが。」 内部の検分を終えて、外に出・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・よべの嵐に吹き寄せられた板片木片を拾い集めているのである。自分は行くともなく其方へ歩み寄った。いつもの通りの銅色の顔をして無心に藻草の中をあさっている。顔には憂愁の影も見えぬ。自分が近寄ったのも気が付かぬか、一心に拾っては砂浜の高みへ投げ上・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・オルダス・ハクスレーの短篇『若きアルキメデス』には百姓の子のギドーが木片の燃えさしで鋪道の石の上に図形を描いてこの定理の証明をやっている場面が出て来るのである。また相対性原理を設立したアインシュタインが子供のときに独りでこの定理を見付けたと・・・ 寺田寅彦 「ピタゴラスと豆」
・・・蝮蛇は之を路傍に見出した時土塊でも木片でも人が之を投げつければ即時にくるくると捲いて決して其所を動かない。そうして扁平な頭をぶるぶると擡げるのみで追うて人を噛むことはない。太十も甞て人を打擲したことがなかった。彼はすぐ怒るだけに又すぐに解け・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 彼等は足駄を履いて、木片に腰を下して、水の流れる手拭を頭に載せて、その上に帽子を被って、そして、団扇太鼓と同じ調子をとりながら、第三金時丸の厚い、腐った、面の皮を引ん剥いた。 錆のとれた後は、一人の水夫が、コールターと、セメントの・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・私は冬によくやる木片を焼いて髪毛に擦るとごみを吸い取ることを考えながら云いました。「行こう。今日僕うちへ一遍帰ってから、さそいに行くから。」「待ってるから。」私たちは約束しました。そしてその通りその日のひるすぎ、私たちはいっしょに出・・・ 宮沢賢治 「鳥をとるやなぎ」
・・・老人は、毎日毎日汗をふきながら机に向っているわたしを可哀そうに思って、ある日、河原から幾背負いもの青葦を苅って来て、それを二階の窓の下につき出た木片ぶきのひさしにのせてくれた。こうすれば反射がよわくなっていくらか凌ぎよいものだ、と云って。・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
・・・如何程鋭利に研かれた小刀も其を動かす者の心の力に依って鈍重な木片となる事を私共は知らなければならないのでございます。 斯様に考えて来ると、私共は、米国女性一般が果して、彼女等の権能を如何程までの反省を以て把持して居るだろうかと思わずには・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
出典:青空文庫