・・・ 水車は川向にあってその古めかしい処、木立の繁みに半ば被われている案排、蔦葛が這い纏うている具合、少年心にも面白い画題と心得ていたのである。これを対岸から写すので、自分は堤を下りて川原の草原に出ると、今まで川柳の蔭で見えなかったが、一人・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・されど空気は重く湿り、茂り合う葉桜の陰を忍びにかよう風の音は秋に異ならず、木立ちの夕闇は頭うなだれて影のごとく歩む人の類を心まつさまなり。ああこのごろ、年若き男の嘆息つきてこの木立ちを当てもなく行き来せしこと幾度ぞ。 水瀦に映る雲の色は・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 漸く顕れかけた暗い土、黄ばんだ竹の林、まだ枯々とした柿、李、その他三人の眼にある木立の幹も枝も皆な雨に濡れて、黒々と穢い寝恍顔をしていない者は無かった。 大きな洋傘をさしかけて、坂の下の方から話し話しやって来たのは、子安、日下部の・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・朝霧が、もやもや木立に充満している。 単純になろう。単純になろう。男らしさ、というこの言葉の単純性を笑うまい。人間は、素朴に生きるより、他に、生きかたがないものだ。 かたわらに寝ているかず枝の髪の、杉の朽葉を、一つ一つたんねんに取っ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・ 狂い唸る冬木立の、細いすきまから、「おど!」 とひくく言って飛び込んだ。 四 気がつくとあたりは薄暗いのだ。滝の轟きが幽かに感じられた。ずっと頭の上でそれを感じたのである。からだがその響きにつれてゆらゆ・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・広々した畑地に霜解けを踏んで、冬枯れの木立の上に高い蒼空を流れる雲でも見ながら、当もなく歩いていたいと思う。いつもは毎日一日役所の殺風景な薄暗い部屋にのみ籠っているし、日曜と云っても余計な調べ物や内職の飜訳などに追われて、こんな事を考えた事・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・いつもとはちがってその時は人影というものがほとんど見えなくて、ただ片隅のベンチに印半纏の男が一人ねそべっているだけであった。木立の向うにはいろいろの色彩をした建築がまともに朝の光を浴びて華やかに輝いていた。 こんなに人出の少ないのは時刻・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・街路は整頓され、洋風の建築は起こされ、郊外は四方に発展して、いたるところの山裾と海辺に、瀟洒な別荘や住宅が新緑の木立のなかに見出された。私はまた洗練された、しかしどれもこれも単純な味しかもたない料理をしばしば食べた。豪華な昔しの面影を止めた・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ 水戸の御家人や旗本の空屋敷が其処此処に売物となっていたのをば、維新の革命があって程もなく、新しい時代に乗じた私の父は空屋敷三軒ほどの地所を一まとめに買い占め、古びた庭園や木立をそのままに広い邸宅を新築した。私の生れた時には其の新しい家・・・ 永井荷風 「狐」
・・・それを越して霞ヶ関、日比谷、丸の内を見晴す景色と、芝公園の森に対して品川湾の一部と、また眼の下なる汐留の堀割から引続いて、お浜御殿の深い木立と城門の白壁を望む景色とは、季節や時間の工合によっては、随分見飽きないほどに美しい事がある。 遠・・・ 永井荷風 「銀座」
出典:青空文庫