・・・そして二本並んだ木蔭へ足を投げ出して坐って吾等を招いた。「ドーダネ。マー一服やって縁起を直しては。巻煙草をやろか。」「ヤーありがとございます――。昨日は私の小さい網で六羽取りましたがのうし。」今に手並を見せると云う風で。 野菊が独り乱れ・・・ 寺田寅彦 「鴫つき」
・・・運動場のすみの木陰では楽隊が稽古をやっているのをシナ人やインド人がのんきそうに立って聞いている。そのあとをシナ人の車夫が空車をしぼって坂をおりて行く。 船へ帰ると二等へ乗り込むシナ人を見送って、おおぜいの男女が桟橋に来ていた。そしていか・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・三の丸の石段の下まで来ると、向こうから美しい蝙蝠傘をさした女が子供の手を引いて木陰を伝い伝い来るのに会うた。町の良い家の妻女であったろう。傘を持った手に薬びんをさげて片手は子供の手を引いて来る。子供は大きな新しい麦藁帽の紐を・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・を長く清らかに引いて、呼び歩いていたようにも思うし、また木陰などに荷をおろして往来の人に呼びかけていたようにも思う。その声が妙に涼しいようでもあり、また暑いようでもあった。しかしその枇杷葉湯がいったいどんなものだか、味わったことはもちろん見・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
・・・野生の萩や撫子の花も、心して歩けば松の茂った木蔭の笹藪の中にも折々見ることができる。茅葺の屋根はまだ随処に残っていて、住む人は井戸の水を汲んで米を磨ぎ物を洗っている。半農半商ともいうべきそういう人々の庭には梅、桃、梨、柿、枇杷の如き果樹が立・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・近寄って見ると、松の枯木は広い池の中に立っていて、その木陰には半ば朽廃した神社と、灌木に蔽われた築山がある。庭は随分ひろいようで、まだ枯れずにいる松の木立が枯蘆の茂った彼方の空に聳えている。垣根はないが低い土手と溝とがあるので、道の此方から・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・ 自分は次第に激しく、自分の生きつつある時代に対して絶望と憤怒とを感ずるに従って、ますます深く松の木蔭に声もなく居眠っている過去の殿堂を崇拝せねばならぬ。 欄間や柱の彫刻、天井や壁の絵画を一ツ一ツに眺めよう。 自分はここにわれら・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・池は大きくはない、出来損いの瓜の様に狭き幅を木陰に横たえている。これも太古の池で中に湛えるのは同じく太古の水であろう、寒気がする程青い。いつ散ったものか黄な小さき葉が水の上に浮いている。ここにも天が下の風は吹く事があると見えて、浮ぶ葉は吹き・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・いかがはせんと並松の下に立ちよれども頼む木蔭も雨の漏りけり。ままよと濡れながら行けばさきへ行く一人の大男身にぼろを纏い肩にはケットの捲き円めたるを担ぎしが手拭もて顔をつつみたり。うれしやかかる雨具もあるものをとわれも見まねに頬冠りをなんしけ・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
胡坐 ああ 草原に出で ゆっくりと楡の木蔭 我が初夏の胡坐を組もう。 空は水色の襦子を張ったよう 白雲が 湧いては消え 湧いては消え 飽きない自然の模様を描く。 遠くに泉でもあるか・・・ 宮本百合子 「心の飛沫」
出典:青空文庫