・・・「私には――認識した御本人でなくては」と団扇のふさを繊い指に巻きつける。「夢にすれば、すぐに活きる」と例の髯が無造作に答える。「どうして?」「わしのはこうじゃ」と語り出そうとする時、蚊遣火が消えて、暗きに潜めるがつと出でて頸筋にあたりをちく・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・こうもしたらもっと評判が好くなるだろう、ああもしたらまだ活計向の助けになるだろうと傍の者から見ればいろいろ忠告のしたいところもあるが、本人はけっしてそんな作略はない、ただ自分の好な時に好なものを描いたり作ったりするだけである。もっとも当人が・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・固より本人の罪に非ず。然るを婦人が不幸にして斯る悪疾に罹るの故を以て離縁とは何事ぞ。夫にして仮初にも人情あらば、離縁は扨置き厚く看護して、仮令い全快に至らざるも其軽快を祈るこそ人間の道なれ。若しも妻の不幸に反して夫が癩病に罹りたらば如何せん・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ かりにその上書建白をして御採用の栄を得せしめ、今一歩を進めて本人も御抜擢の命を拝することあらん。而してその素志果して行われたるか、案に相違の失望なるべし。人事の失望は十に八、九、弟は兄の勝手に外出するを羨み、兄は親爺の勝手に物を買うを・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・けれども本人が望みならまた寄越して呉れ。」「うん。」 どうです。とうとうこんな変なことになりました。これというのもテジマアのばけもの格が高いからです。 とにかくそこでペンネンネンネンネン・ネネムはすっかり安心しました。 ・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・産主義というものに理解がなくて、共産党員といわれる人々の中にいけすかないものがあるにしても、自分のすきでない共産党や共産党員がやっつけられるという小気味よさにだまされて、本質的には、いい気味がっている本人自身の市民的自由や生活権をかっぱらわ・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・ 或る演説の中で、徳田さんは、日本婦人の一般は、本人たちが自覚している以上のおどろくべき運命に陥っていると語った。そして日本の婦人は誰もが自由にかつえているばかりでなく、愛情にも飢えていると断言した。 私は、こうした着眼点を知って、・・・ 宮本百合子 「熱き茶色」
・・・殉死する人がぽつぽつある。殉死する本人や親兄弟妻子は言うまでもなく、なんの由縁もないものでも、京都から来るお針医と江戸から下る御上使との接待の用意なんぞはうわの空でしていて、ただ殉死のことばかり思っている。例年簷に葺く端午の菖蒲も摘まず、ま・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・だから本人の気の向く学科を、勝手に選んでさせて置いて好いと思っているのであった。 ベルリンにいる間、秀麿が学者の噂をしてよこした中に、エエリヒ・シュミットの文才や弁説も度々褒めてあったが、それよりも神学者アドルフ・ハルナックの事業や勢力・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・「さア、それは大変なものらしいのですが、二三日したらお宅へ本人が伺うといってましたから、そのときでも訊いて下さい。」「何んだろう。噂の原子爆弾というやつかな。」「そうでもないらしいです。何んでも、凄い光線らしい話でしたよ。よく私・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫